第7話 二週目②

 待ち合わせの五分前に駅に着くと、彼は既に待っていた。

「昨日言ってくれればそのまま寄ってもらえたのに」

「今朝急に、即急に欲しいって言われちゃってさ。ごめんね」

 町田君は怪訝そうな面持ちだ。怪しまれているような気がするけど、仕方ない。

「餌のお皿とか、トイレなんかもあるけど、いる?」

「とりあえず、これだけで大丈夫だと思う。どうもありがとう」

 町田君はうなずくと、一瞬もの言いたげな表情を浮かべて、でも特段なにも言わずに去っていった。 

 ベッドを持って帰ると、猫は想像以上に喜んだ。

――まあ、本当にタミのベッドを持ってくるとは! お坊ちゃまにタミの形見を手放させることができるとは、あなたもなかなかやりますね。

 猫はさっそくベッドに入り、匂いをかぐと、うっとりした様子で横になる。そのまま丸くなると、すぐに寝入ってしまった。

 どたばたしていた週末も終わり、いつものように電車に乗り込む。図書館は月曜日が休みなので、ここ最近私の週明けは火曜日である。

 この三日間で現実世界からだいぶ遠ざかってしまったので、通勤中に可能な限り仕事モードに切り替えないといけない。普段よりもしゃきしゃきと歩きながら、さほど慣れていない駅を通過し、さほど慣れていない道を歩く。MP3プレイヤーをシャッフル設定にして、普段より大きめの音量でかけていたら、二曲目でそっくり人形展覧会が再生され、慌てて停止ボタンを押した。

 二十分ほどで職場に到着し、既に座ってなにかしている人たちにあいさつしながら、自分の席へと向かう。

 ベルが鳴ると同時に立ち上がり、返却された本を棚に戻す作業に没頭する。途中で十五分間休憩が入るものの、それまではひたすら一人だ。

 誰でも閲覧できる開架と呼ばれる棚には、職員さんやボランティアさんが返却してくれるので、私の作業は九割以上が地下の部屋で行われる。地下にしまわれた本たちは、コンピュータ検索にひっかかって、リクエストがあったときにだけ日の目をみることができる。それなりに新しい本もあるけど、子供のころに読んだ本や、いかにも表紙が一昔前の雰囲気を漂わせているものも多い。猫のことがなければ、こちらもそれなりに非日常的な空間と言えそうだ。

 猫が現れてから、四日間が経過した。金曜日の夜家に帰ると、化け猫が布団の上に居座って私を睨みつけていた。その猫は、自分は町田晋の飼い猫だったと言った。彼とは高校の同級生で、卒業してから十年近くつき合いがなかったのに、なぜ今ごろになってそんな人の猫が私の元に来たかというと……、今更ながら、よくわからないことに気づく。

 そうこうしているうちに、十一時五十五分になっていた。まだまだ棚に戻すべき本はたくさんあるけど、時間はきっちり守ることにしている。先週、五分遅れて地上へ戻ったら「返却する本はなくならないんだから、時間内だけ働いてもらえればいいんですからね」と釘を刺された。どうやら、あまりに頑張る人だと、すぐに燃え尽きて辞めてしまうらしかった。

 エレベーターに乗り込み、地上に到着する。席に着くと、ちょうど十二時のチャイムが鳴った。

「お疲れさま」

 隣の席の大沢さんが、笑顔で声をかけてくれる。人と話すのは数時間ぶりだ。

「大沢さんって、猫飼ってるんですよね?」

 お弁当を広げながら尋ねると、大沢さんはこくんと頷いた。

「猫って、可愛いですか?」

「好きで飼ってるから、私は可愛いと思ってるけど。写真見る?」

 彼女は箸を置くと、カバンから携帯電話を取り出す。画面を開けると、幼い顔立ちの猫が不思議そうにこちらを見ている。真っ白で、ふわふわしていて、まだ成猫になりきっていない、少女のような猫だった。

「猫って、こんなに可愛いいんですね、それとも飼い主に似たのか。びっくりしました」

「そんなに褒めなくても大丈夫だよー」

 大沢さんは私より幾つか年上だ。一年前に結婚したばかりだそうだ。猫を飼い始めたのは最近らしい。

「こういう可愛い猫って、やっぱりペットショップで買うんですか?」

「うちのは、里親を探している人から譲ってもらった猫だよ」

 大沢さんは携帯を脇に置くと、再びお弁当に手をつける。

「もしかして、安藤さんも猫飼おうって思ってる?」

「全然思ってないんですけど、最近ちょっと猫が家にいるようになって……期限つきなんですけど」

「期限つき?」

 なんと説明すればいいのか。幽霊だから死後四十九日が経過したらあの世へ行くらしいです、なんて言えるわけがない。

「誰かから預かってるの?」

「まあ、そんなところです」

「どんな猫なの?」

「ばあさん猫です」

 大沢さんは声をあげて笑った。

「ごめん、笑っちゃって。でも、いいなあ。成熟した猫の魅力がありそう」

 成熟を通り越して化け猫なんですけどね……と言うのは心の中だけにしておく。

「見るだけならまだあまり害はないんですけど、口が悪いんですよ」

「口が悪いの? 猫が?」

 大沢さんの目が真剣になる。

「見た目が、なんていうか、きついこと言いそうに見えるんですよね、目なんかこう、吊り上がっちゃってるような」

 危ういところだった。猫は口を使って言葉を発しているわけではないけれど、テレパシーでも使っているのか、猫の話していることは私の頭の中に日本語で響いている。しかし、当初猫に話しかけられて怯えていた私も、三日も経つとすっかり慣れてしまっていた。やはり猫は恐ろしい。

 ご飯を食べると眠くなる傾向が加齢とともに強まっている気はするものの、今日の眠気は尋常ではない。きっと週末ろくに眠れなかったからだろう。どうせ地下なんて誰も来ないんだし、五分くらい居眠りしたいという衝動に駆られる。しかしここは小者の悲しいところ、クビにされるのが怖いので、倒れるまではせっせと働こうと思ってしまう。

 わずかばかりの蓄えがあるからといって、余裕があるわけではない。辛うじて社会保険料は払ってもらっているものの、毎月かつかつだ。この間だって、お茶だから行けたものの、吞みに行こうなどと言われた日には、その都度お財布と相談しなければいけない。

 もしここをクビになったら、なにかいいアルバイトはあるのだろうか。選ばなければあるとは言っても、今年度いっぱいの期限つきでは難しいし、単発のバイトを探し続けるのも気が休まらない。こんなご時世に一人で生きていくのはなかなか大変だ。

 本を棚に戻していくことは、これは当面の仕事ではあるけれど、ライフワークとは言えない。いくら上達したところで、半年後の私はもうこういうことはしていない。知識、技術の積み重ねなどないし、頑張ったところで、同僚や上司が一時的に喜んでくれる程度で、給料や社会的地位が向上することはない。まさに口を糊するという表現がぴったりだ。町田君はなにを思って、こんな私のことをうらやましいなどと言ったのか。

 ふと、風でも吹いたかのごとく、過去の出来事が頭をよぎる。

 私たちはいつも、他の人たちよりも学校にいる時間が長かった。だから二人でいる時間も長かったけど、絶え間なく話し続けるということはなく、どちらかというと、同じ空間にいながらも、各自思い思いのことをしていた。

その日は珍しく話が弾んでいて、どういう流れだったか、町田君は、こんなことを言ったのだった。

「ドラクエみたいだね、それ」

 高校に入学したばかりで世間を知らなかった私は、よその学校でも同じゲームが流行っていたんだなどと、どうでもいいことに気を取られていた。

「あれだと、必要なアイテムを手に入れたり、重要な人物と話したり、そういう必ず行わないといけない儀式があるじゃない。そういうのをちゃんとこなさないと、敵をたくさん倒してレベルが上がっても、次に進めないじゃないか。そうなっているおかげで、ゴールするために必要なものは確実に入手できる。ああいうのっていいよね」

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