第5話 一週目③

 買い物が終わると、ちょっとお茶でもということになった。特に仲良しだったわけでもない三人が、仕事や住居の都合でたまたま幹事になっただけで、仲良しみたいな顔して一つのテーブルを囲んでいる。おかしなものだ。

「安ちゃんは今なにしてるの?」

「最近、図書館で臨時の仕事が見つかって、週に四日働いてるの」

「よかったね、仕事見つかって」

 私たちが何食わぬ顔で話していると、

「ちょっと待って、なんの話? 仕事辞めたの?」

 町田君が割り込んでくる。

「うん、先月ね。図書館の仕事はつなぎで、来年からはよそで働くんだけど」

「へえ、そうなんだ……」

「前いた会社、けっこう大変だったんだよね。今は当面の生活費があればまあ大丈夫だし、来年から本腰入れてまた頑張ればいいかなと思って」

「いいなあ」

 町田君は、言ってからはっとした様子を見せた。

「あ、ごめん、安藤さんだって、他人が思うほど楽な生活を送っているわけじゃないというのはわかるんだけど」

 町田君はコーヒーを一口飲んだ。

「僕なんて、今の仕事から解放されるのは何十年先かと思うと、一時的であるにせよなんにも縛られてないのは羨ましいと思ってさ。だって安藤さんは、仮に来週で図書館を辞めて突然海外へ行ったりしても、さほど周りから咎められないだろう?」

「まあね。町田君も思い切って辞めてみる?」

「今更、そんなパワーないよ。それにしても、安藤さん、バイトなのに、一人暮らしで頑張ってるんだ」

「来年また引っ越すの大変じゃん。貯金切り崩してなんとかやってるよ」

 なんとなく会話が途切れて、それぞれ飲み物をすすった。

「図書館の仕事って、僕も興味あったんだよな。どういうことしてるの?」

「けっこう退屈だよ。ひたすら、返却された本を棚に戻すだけだし。賽の河原で石を積んでいるようなもんだよ」

「どんな仕事だって、賽の河原で石を積んでいるようなもんだよ、大差ないさ」

 ちらっと彼の表情を盗み見ると、けっこう真面目に見える。

「閉架の本も返却するの?」

静香さんに「ヘイカってなに?」と聞かれたので、地下にある古い本をしまっておく倉庫だと説明する。

「図書館に来た人は、どうやってそこの本を借りるの?」

「借りたい本をコンピュータで検索すると、本の在り処が表示されるんだ。そこに書庫とか閉架とか書かれていたら、地下にあるってことだから、受付の人にレシートを渡して、取ってきてもらうんだよ」

 私が答える前に町田君が説明してくれた。

「よく知ってるね」

「常識だよ」

「実は私も、図書館で働くまではよく知らなかったんだ」

「じゃあ、本棚にない本を借りたい場合はどうしてたの?」

「本棚にある本が全部だと思ってたから、見てなかったら、ないんだと思ってた」

 町田君は、「まったく、二人とも」と言いながら、

「見えないものだって、存在するんだよ」

 と、どこか得意げな様子を見せた。

 そうこうしているうちに、気づけば五時になっていた。

「そろそろ帰らないと」

 時計を見て、町田君が呟く。

「お母さんがご飯用意してくれてるの?」

「僕も一人暮らしだけど」

「家族と一緒に猫の面倒見てたんじゃなかったっけ?」

 町田君は顔をしかめた。

「そんなこと話したっけ? まあ、いいけど。

 就職してから九か月間は実家にいたけど、その後はずっと一人暮らしだよ。最近は、猫の具合が悪かったから実家から職場に通ったりもしてたけど、その猫もいなくなったから、またアパートに戻ったんだ」

 町田君だけ違う方向なので、まもなく別れた。彼の姿が見えなくなると、静香さんがささやいた。

「町田君、家から通えるのに、なんであえて一人暮らししてるんだろうね」

「私からすると、静香さんのほうがよく実家で生活してるなって思っちゃうけど」

「だって、お金節約できるし、楽だし」

 前者はうなずけるけど、後者はどうだろう。

「色々と干渉されてイライラしない? 自由がないじゃない」

「どうせ一日中仕事してるんだし、一人だからといってさして自由だとも思えないけど」

 私はまだ前の職場を辞めたことを親に言っていない。来年勤め出してから言えばいいと思っている。親と同居していたらおそらくそういうことは不可能だろう。ささやかな自由を得るための出費は、私にとっては決して削れるものではない。

 家に着き、ドアを開け、鞄を床に置き、お茶でも飲もうかと薬缶を手にしたときだった。

――ただいまくらい言ったらどうですか?

 猫のことなどすっかり忘れていたので、びっくりして薬缶を落としかけた。

――お坊ちゃまはお元気そうでしたか?

「なぜ、私が町田君と会ったことを知っているのですか」

――なぜ私に坊ちゃまとお会いすることを隠していたのですか。

「隠したんじゃなくて、特に言わなかっただけです。それよりも、なんで知ってるんですか? まさか、人のメールを勝手に読んだんですか?」

――猫に字が読めるとでもお思いですか。

 猫は小馬鹿にしたように呟く。

――あなたの気配から察したんです。

「じゃあ、お坊ちゃまがどんな様子だったかも、私の気配から察したらいいんじゃないですか」

――タミに八つ当たりされても困ります。 

 思わず薬缶を投げつけたい衝動に駆られる。しかし次の瞬間、昨夜、クッションが猫をすり抜けてベッドを叩いてしまった感触が思い出される。

――あなたの様子から察するに、あまり面白くないことがあったのでしょうか。

「まあ、会っていても特に面白い人でもないんで」

――でも面白いときもあったのでしょう。

「あったとしても、多分、もう思い出せないくらい遠い昔のことです」

猫とやりあっても仕方ない。気を取り直して、当初の目的であるお茶を淹れるという作業に着手する。

――お坊ちゃまは、タミのことをなにかおっしゃっていましたか?

「すっごい落ち込んでいるみたいでしたよ」

 そう言ってやると、猫は静かになった。

 ご飯を食べて、入浴を済ませる。髪を乾かし布団に入ると、昨日よく眠れなかったせいだろうか、あっという間に意識が遠のいていった。


 気がつくと、川の前に立っていた。

 ふと「賽の河原」という言葉が思い浮かぶ。日中も、自分の仕事についても同じ固有名詞を使って話していたことを思い出す。なんでそんな話をすることになったのだっけ、などと思っていると……。

「この川の向こうは、あっちの世界です」

 突然の声に驚き、飛び上がる。隣には、猫がいる。

「あっちの世界、とは?」

 ここは、いつもの感覚からすると、夢の中であることはほぼ間違いない。しかし、なぜプライベートな空間であるはずの夢の中にまで、猫が侵入してきているのか。それに加えて、川の向こうはあっちの世界とのこと。

「あなたは、もしやこの川が三途の川だと勘違いされているのではありませんか?」

「勘違いかどうか知らないけど、そうだと思っています」

「これは三途の川ではありません。安心して渡って下さい」

 猫の言葉を、頭の中で反芻する。やはり、猫の言うことはおかしい気がする。

「大丈夫なんですか? さっき、向こうはあっちの世界だとか言ってたような」

「まあ、大丈夫でしょう。ほら、よく県境とか市境とかを、川で決めたりするじゃないですか。あれと同じことです。気楽に渡って下さい」

「気楽に? まあ、県境や市境なら普通に超えていいけど、もしこれが国境だったら、入国審査も受けずに超えたりしたら犯罪だし……、この川は、いったいなんの境目なんですか?」

「私とあなたとの境目です」

 川の向こうは猫の世界だとでもいうのだろうか。

向こう岸に目をやると、あきらめたほうがいいような、でもできるかもしれないような、ちょうどぎりぎりの距離だ。

 川の水は透明で、淡いエメラルドグリーンに見える。磨かれた半貴石のような、淡くてきれいな色、フローライトとか、少し緑がかったアクアマリンを思わせる。渓床には、猫が丸まったくらいの白い丸い石がごろごろしている。足元をよく見ていないと、流れに足を取られて転んでしまいそうだ。こんな川、普段だったらまず歩いて渡ろうとは思わないけど、夢の中だからか、やればできるかもしれないと思えてしまう。

「あの、できたら橋を使いたいんですけど」

「それは、だめです。あなたも先ほど言われたじゃないですか、入国審査を受けずに他国には入れないと」

 え、と思い、猫を見つめる。

「堂々と行っても入れない、だからこそこそと渡るのです」

 今日の夢はおかしい。いくら夢だからって、よくわからないところに足を踏み入れて、犯罪者扱いされてしまったら、たまったもんじゃない。

「なにを躊躇っているのです。さあ、お行きなさい」

「えー、でも……、苦労して渡って、それに見合うだけのなにかがあるんですか?」

「まあ、なんてケチなんでしょう。そんなに損得勘定ばかりで生きていたら、なにもできやしませんよ」

 猫にこんなことを言われるだなんて、腹立たしいったらありゃしない。

もうどうにでもなれとばかりに歩き出す。思ったよりも冷たい水だ。流れも強く、私を押し流そうとするかのようだ。しかし、一歩踏み出してしまったからには、もはや引き返す余裕もなく、かといって、じっとしていても体力が消耗するばかりである。一歩一歩、ただ前に進むことだけに意識を集中させる。一方猫は、でっぷりとした体をものともせずに、水の上をぴゅーんとアメンボのように跳んで行く。

 膝上くらいまでだった水嵩は徐々に上がって行き、腰のあたりにまで達してくる。激しい運動により発せられた熱が、発したそばから奪われていく。あまりに冷えてきて、もはや自分がなにを感じているのかもわからなくなってくる。不快感が続くと神経が参ってしまうから、こうして閾値を超えると苦痛が薄れていくものなのだろうか。

 夢の中で息絶えたら、夢から覚めて現実に戻れるのか。いっそ流れに身をゆだねて、流されてしまったほうがいいのだろうか。でもそうしたら、川の向こうにある世界とは、永遠に接する機会がなくなってしまうかもしれない。

 息を止めて、残りの数歩を歩ききることに集中する。陸に着いたと思った途端、意識が薄れていった。

 猫に呼び止められて、はっと我に返る。

「ああ、着いたんですか。私、体力ないんですよ。流されるかと思った」

「ここでは、体力よりも気力が大切です」

「どちらも自信ないんですよね。ところで、ここにはなにがあるんですか?」

 猫は怪訝そうに私を見る。

「あなたには、見えないんですか?」

 なんのことですか、と訊こうと思ったそのときだった。

「はじめましてと言うべきでしょうか、一応」

 そこにいたのは、見知った人だった、と言いたいところだけど、多分違うのだろう。きっとこれが、猫が話していた、町田君にそっくりな人物なのだろうと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る