自宅を要塞化DIY ~ゾンビパニックまで残り一ヶ月~

昼熊

プロローグ

 それはいつも黒かった。

 月に一度だけ、何もない暗闇の夢を見る。

 指一本動かすこともできず、声も出ず、ただ暗闇の中で時間が経過するのを辛抱強く待つ。

 暗闇に対する恐怖。

 泣き喚くことすらできない焦燥感。

 諦めにも似た境地。

 これはただの夢、そう夢。

 なんの意味も無い夢――のはずだった。

 




――4月1日

 

 日めくりカレンダーを一枚破り捨てる。

 今日はエイプリルフール。

 次に壁掛け時計の時間を確認する。朝の六時半。

 よっし、いつも通りだ。

 そこから視線を下げて自分の服装を確認する。地味なねずみ色のスエットの上下。いつもと変わらない、お気に入りの寝間着。

 足と手には姉お手製の冷え性対策グッズである手袋と靴下が装着されていた。春とはいえまだ朝晩は冷え込むので、毎年使っている。


 自分がどこにいるのか確認するために辺りをぐるっと見回す。

 座りすぎてクッション性が失われているソファー。冬場はこたつにもなるテーブル。

 奮発して買った大きめのテレビ。ネットに繋いであって動画配信サイトも観られるので重宝している。

 後方には台所が見える。

 対面型のキッチンに備え付けられたカウンターテーブルの前には、姉がお気に入りの青い椅子が二脚。


 ダンボールに放り込まれている姉が買いだめした大量の菓子。

 ほとんど使わないのに姉が衝動買いをしたコーヒーメーカーが、我が物顔で目立つ場所に居座っている。

 他にも……料理ができないのに姉が好奇心で買いそろえた調味料の数々。

 家具や物もいつもと変わらない。間違いなく我が家のリビング。

 次にテレビをつけるためにリモコンが必要になる。が、寝る前に机上の定位置に並べたので探す手間はない。


 リモコンを手に取り電源ボタンを押すと、画面がつく。

 民放のチャンネル番号が右上に表示され映像が飛び込んでくる。

 上空から町を見下ろした映像で、おそらく報道ヘリだろう。最近はドローンでの映像が多いらしいけど。手軽さとコストの面でヘリの出番は減っているそうだ。

 ……て、どうでもいい知識は置いておいて映像に集中しよう。

 町の至る所から炎や煙が上がっていて、小さな人影が逃げ惑っているように見える。


 距離が離れすぎていて点にしか見えない人々が一斉に走り、それを点のような人が追いかけている。

 もう少しズームしてくれないと詳細がわからないが、それはまるでパニック映画のワンシーンのようだった。

 今日が何の日か思い出し、テレビ局がエイプリルフールに悪乗りして制作した映像を流しているだけかと疑ってみたものの、画面に映る映像の生々しさに思わず息をのむ。


「海外のテロ映像みたいだ」


 日本ではあり得ない光景に思わず声が漏れた。

 はっとして口を塞ぐが今更どうしようもないので、机の上にあらかじめ用意していたボールペンと紙を使い、自分の呟きを書き込んでおく。

 ついでに今の服装もメモしておこう。

 さっきの呟きに反応したかのようにアナウンサーの声が響く。


『信じられませんが、これは日本での光景です! 昨晩から原因不明の暴動が至るところで多発しています! 視聴者の皆さんは家から出ないでください! 繰り返します――』


 焦りを含んだ必死な叫びに現状のやばさが嫌というほど伝わってくる。

 唐突に映像が切り替わった。今度は視聴者から送られたスマホで撮ったものらしい。

 ショッピングモール内で叫び声と悲鳴。逃げ惑う人々。

 投稿者が震えているのか映像がぶれている。それでもなんとかスマホが捉えているのは、倒れている女性に覆い被さる一人の中年男性。


『何してんだ、あんた!』


 覆い被さる中年に立ち向かう勇気ある青年の後ろ姿。

 その相手は怒鳴りつけられたにもかかわらず、意に介すことなく女性の上から離れない。


『離れろって言ってんだ……ろ……』


 背後から掴みかかり引き離そうとした青年の動きが止まる。

 百八十度、ぐるりと頭を回転させた中年の顔を間近で見てしまった。

 赤く光る瞳。ニタニタと笑う口の端からこぼれる鮮血。顔中に浮かび上がっている血管。

 誰もが一目見てわかる異常さ。

 映像はそこで途切れ、スタジオのセットが映る。


『何度見ても信じられませんが、あれはどういうことなのでしょうか。それに今起きている非常事態についてもご意見をうかがうために、今日は医大の船越教授にお越し頂きました』

『よろしくお願いします』


 白髪交じりの髪に灰色のスーツ。見るからに頭の良さそうな雰囲気の男性がコメンテーター席に座っている。


『昨日から各地で暴れている人々には全員似たような症状が出ているそうですが、あれはいったいなんなのでしょうか? 噛みつかれるとうつるらしく、狂犬病のような伝染病ではないかという噂がネット上では流布されているようですが』

『今のところ原因は不明です。まるで映画の……ゾンビのようだ、などという噂も流れているようですが流言に惑わされることなく冷静な対応を心がけてください』


 空調が効いているはずのスタジオで、額の汗をハンカチで拭っている姿からは動揺しか感じとれない。専門家らしいが現状の把握ができていないのだろう。

 テレビでは曖昧な憶測と当たり障りのない意見しか口にしないので、ノートパソコンを立ち上げる。

 いつもなら真っ先に株価や競馬の配当なんかをチェックするのだが今はそれどころではない。


 ニュースサイトやSNSを片っ端から調べていく。どこもかしこもこの騒動でもちきりだ。やはり世界中で同じような事態になっているらしく、現場近くに住む人の書き込みや投稿された映像は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 さっきのニュース映像は映画の予告でもなく実際のもの。

 本来ならもっと驚くなり慌てるなりするものなのだろうが、俺の心はさほど乱れていない。


 まるで――心構えができていたかのように。


 視線をディスプレイから上げ、再び壁掛け時計に移す。

 時刻は七時二十八分。

 そろそろ時間か。

 机に置いた紙にメモしておいた文字に目を通し、しっかりと覚えておく。

 つぶやいた言葉、自分の服装。さっき見たニュース番組とネットで調べた項目。

 よっし、これで大丈夫だ。

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