第28話
漆黒の巨大な球を上に望んで落下しながら、ハーデスが一人転移したことについて十兵衛は内心「いい判断だ」と讃えていた。
ハーデスは【死の律】だ。律の管理者である彼は生きとし生ける命の寿命を妨げられず、死の理由に関われないと称した事を十兵衛は覚えていた。あの場での最善は、十兵衛を置いてヴァルメロを追うこと、ただ一つだったのである。
――何せ俺には、次元優位があるからな。
リンドブルムに落ちたらただでは済まないと察せられる大魔法を見ながら、十兵衛は打刀を構える。
今ここでそれを阻止出来るのは、自分しかいないと覚悟していた。全てを破壊出来なくても、少しでも大きさを縮められればきっとクロイスが対処してくれる。そう信じ、十兵衛は目を閉じて意識を集中する。
「――
次元優位を預かっているという老婆に謝罪の言葉を述べ、カッと目を見開いた。
瞬間、淡い緑色の光が全身から放たれるように輝き、それまで感じたこともないような全能感を十兵衛は悟った。
ハーデスの宣言通り本当に意識を集中するだけで次元優位を取り戻せたことに感謝しながら、十兵衛は打刀を大きく振りかぶる。
「真価を見せろ! 【夜天】ーーー!!」
――
祖父より
長い刀身に曇りは一切なく、東の空から昇る朝日に煌めく光が、まるで鏡のように白刃に映る。
十兵衛の次元優位と、【夜天】に宿る次元優位。その二つが合わさり重なって出た渾身の一撃は、莫大な飛ぶ斬撃となって漆黒の重力球を斬り裂いた。
中央を大きく裂いた次元を超えた一撃は魔法の構成自体をも破壊し、重力球を暁の空に霧散させる。
それを見届けた十兵衛は、「はぁ~~!」と大きな溜息を吐いて打刀を鞘にしまった。
「良かった良かった。なんとかなった……いや、いやいやいやよくないな!?」
ヒッと息を呑んで近づく大地に顔を向ける。次元優位を身に宿している分多少は大丈夫かと思ったが、それでも空から大地に激突するなど考えたくもない未来だ。はらはらと落下予測地点を確認した所、このまま落ちればオーウェン公爵邸の庭に着く事になりそうだった。
「水でもない!! ひどい!!」
「ヴァルメローー!!」と己に災厄を
そうして絹を裂くような叫び声を上げながら、十兵衛は容赦なく大地に激突することとなるのだった。
***
――水の、流れる音がする。
地下水路脇の道に仰向けになっていた十兵衛は、呆然自失のまま陽光の差し込む大穴を見上げていた。
「……いきてる……」
幼い子供のような、たどたどしい一言だった。
それぐらい信じられない経験をしたのだ。
凄まじい勢いで鞘から激突した大地は大きく凹み、力が一点集中してしまった結果、地中に大きなヒビを入れて地盤ごと崩壊した。叫ぶ間もなく更に下へと落ち続け、ついにはリンドブルムの地下に至って水路に叩きつけられ、そこでようやく止まったのだ。
這う這うの体で陸地に上がり、仰向けになったのがつい今しがたのことである。
激突による負傷については、身体を少しぶつけた程度の痛みが全身を襲っていた。しかし、裏を返せば次元優位のおかげでそれぐらいで済んだのだ。
「じげんゆうい、こわ……」
十兵衛は、思わずぶるりと身を震わせた。
普通なら形も残らずぺしゃんこになっている高さである。それをこの程度の痛みで済ませている次元優位の凄さを実感しつつ、老婆に戻すために改めて意識を集中した。
淡い緑色の光が身体から消失し、いつもの自分を取り戻してほっと息を吐く。打刀を腰に戻し、苦労しながら起き上がって壁に凭れかかり、改めて座り直した。
見上げる先の地上は、はるか遠い。落下の衝撃でいくつかの水路をもろとも破壊したのか、地上へつながる穴からもちょろちょろと水が流れ落ちていた。
とてもではないが上れない高さにどうやって戻ろうかと思案して、ふと「命数の見えるハーデスが見つけてくれるから大丈夫か」と考えた。そして自然とその案が出た自分に、十兵衛は苦笑する。
切腹を遮り、勝手に巻き込んで異世界にまで自分を連れてきた超常の存在。腹立たしい事は数多くあれど、ハーデスの語る話を耳にしてから、十兵衛はただ憎いとは思えなくなっていた。
――死を自ら望む者と同様に、死を選んだ者を見送る者もまた、苦しんでいる。
ライラに刃を振り下ろせなかった自分。そして、沈思の塔でのハーデスの吐露。同じく見送る者の立場として立った時、十兵衛は別の視点からの心を知った。
――死を司るとか抜かしたくせに! 死なんて望むところだろうが!
――ひどい勘違いだ! 私が望むのは――
出会った時にハーデスにかけた言葉を思い出し、思わず胸を痛める。
『死』そのものを冠するハーデスは、自ら死を選ぶ者達を見る度にやるせなさを顔に出すも、言葉には出さずただ黙して見送っていた。自分の思いより、熟考した上でその道を選んだ者達の意志を尊重していたのだ。
それでも、と十兵衛は思う。
ハーデスは、死を望んでなどいなかった。自ら死を選ぶ者の心を知り、出来る事ならその原因を排したかったのだ。
――だってハーデスは、きっとずっと――
「十兵衛!」
そんな時だ。丁度思い浮かべていた男の声が、目の前から聞こえた。
いきなり眼前に現れたハーデスに、十兵衛はあまりにも驚きすぎて一瞬呼吸を忘れる。
「ハ、ハ、ハーデス……!」
「十兵衛! 怪我は!」
今まで見た事が無い程に慌てた様子で十兵衛の下瞼を引っ張って貧血状態を見たり肩を擦って確認したりと、細々と身体を触って診察する。そんなハーデスに目を白黒させていた十兵衛が、「だっ、もっ、おち、落ち着け!」と両肩を押さえるようにして止めた。
「怪我は無い!」
「無いわけあるかっ!!」
「えっ!? い、いや、無い! 無いとも!」
「嘘をつけ! あの高さだぞ!!」
泣きそうな声で言葉尻を震わせるハーデスに、十兵衛はその時ようやく自分が思っている以上にハーデスが心配していたことを知った。
こともあろうに、『死』に怪我の心配をされている。そう思うとなんだか面白くなって、十兵衛は笑いを堪えながら「大丈夫だ」とハーデスの肩を宥めるように叩いた。
「次元優位を使った。だから大丈夫だ」
「次元、優位を……」
「お前が言ったんだぞ? 集中したら肉体の次元優位を取り戻せるって。御母堂には悪いと思ったが、緊急事態だったんでな」
「いやはや、すごいな次元優位は」とからからと笑ってみせた十兵衛に、ハーデスは唇をわななかせて俯き、そのまま額を十兵衛の胸へと押し付けた。
両肩を押さえられたままのせいで動けなかった十兵衛は、嘆息しつつ丸まった目の前の背中を軽く叩く。
「……どうした。らしくもなく凹んでいるじゃないか」
「……クロイスに、叱られた」
「オーウェン公に? なんでまた」
「私の祝福は、お前に惨い苦しみを与え続けるのだと」
思わず目を丸くした十兵衛に、ハーデスは声を震わせて懺悔する。
「知らなかったんだ。生きているのに死ぬより辛い事があるから、人は死を選ぶこともあるのだと。私の祝福のせいで、お前は惨い苦しみを受け続ける事になるのだと――!」
「……ハーデス……」
「もし、もし次元優位が発動しなかったら、死んでもおかしくない程の怪我を負ってもなお生かし続ける苦しみを、私は、お前に……!」
「…………」
「呪いだ、あんなものは――!」
悔恨に震える【死の律】を、十兵衛はじっと見つめた。その内ふっと肩から力を抜き、「お前、分かってないな」と仕方なさそうに告げる。
「俺は今だって、死ぬより辛い」
はっと顔を上げるハーデスに、十兵衛は静かな笑みを浮かべた。
「肉体のことだけじゃない、心もそうなんだ。……侍として、皆と死ねなかった。贖いも責務も果たせなかった。そういう思いを抱えて生きるのはな、ハーデス。死ぬよりも辛いことなんだよ」
「……十兵衛……」
「だがなぁ」
泣き出しそうに震える瞳を真っ直ぐ見つめてやりながら、十兵衛は目の前の『死』を優しく撫でる。
「生きていたから知れたことがあった。知らないから選べなかった道があることも、死を選ぶ者を見送る気持ちも、――そして、人はここまで豊かになれることも」
「…………」
「俺は、この星に来て驚いたんだ。食べ物や服を分け与える事は施しではなく親切で、そう在れるのはこの世界が豊かだからで。……文明の違いはあれど、同じ人間がここまで成れる可能性を示してくれたことに、俺はとても感動したんだ」
隙間風もなさそうなしっかりとした作りの家に、風呂や洗濯の衛生観念。人々はやせ細ることなく健康的な顔色で笑顔が溢れ、自分の好きなもので生活を彩れる程の余裕があった。
きちんと舗装された道を馬車が行き交い、食卓に並ぶ食材は豊富で、異邦の者の文化にも合わせてくれる心の豊かさが、ただ眩しかった。
羨ましいのではなく、こう在りたいと十兵衛は思った。いずれ
「だから、なぁ。ありがとうハーデス」
「――!」
「お前がかけた祝福が俺を助け、お前が教えた恩恵が俺を救った。故に俺は日本で生きてる時に見られなかった光景を、たくさん目にする機会を得られたんだ」
「十兵衛……」
「いずれ死にゆく定めでも、俺は学びたい。主の治める地がより豊かになれる手がかりを、もっともっと知っていきたい。――だから、共に知っていこう」
「俺達は、まだまだ知らない事が多すぎる」
何も言葉が出ないのか、ハーデスは無言でこくこくと子供のように頷いた。
やがて何度も何度も口を開きかけてようやく出た言葉が、「でも、あれは、呪いだ」と悔いるもので。
そんな掠れた声で呟かれた懺悔に、「祝福だとも」と十兵衛は言った。
「生の謳歌を願うお前の術が、呪いなわけがないだろう?」
よき結びを。よき生を。ハーデスがかける言葉の全てに、『君の行く末に幸あれ』という祈りが、たくさん、たくさん込められていた。
それを察する事が出来るようになっていた十兵衛は、「死の律のくせに、そんな事も分からないのだなぁ」と笑いながら、肩を震わせるハーデスの背を、優しく、優しく叩いてやるのだった。
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