第3話

 ダルメシア連峰から裾野に広がるマルー大森林にも、朝日が差し込み始めていた。

 源頭げんとうのあるマルー大森林に向かってパルメア大運河を遡る形で上空を進んでいた少女は、自分を背に乗せたまま飛び続けてくれる巨大な大鷲――郵便大鷲ポスグルを労わるようにそっと撫でる。

「荷も重いでしょうに……ごめんなさい。あともう少しです、頑張って!」

 郵便大鷲の大きな蹴爪には、大量の郵便物の詰まった荷物が掴まれていた。交易都市であるリンドブルムからマルー大森林方面への配達が彼の仕事だった。だが、飛び立つ寸前、発着塔はっちゃくとうに駆け寄ってきた少女が「私も乗せて行ってください!」と頼んできたのである。

 賢い魔獣まじゅうである郵便大鷲は、彼女がどういう人物かよく知っていた。故にこそ「無理です」と断る郵便大鷲ポスグル使つかいの言葉に同意し何事も無かったかのように飛び立とうとしたのだが、焦りの滲む真剣な空色の瞳を見てただならぬ気配を感じ、彼はあるじの意向も無視して彼女を背に乗せ、願いに応えたのだった。

 薄青色のウィンプルが風にはためく。ウィンプルの下に覗く翡翠ひすい色の髪は肩につかない長さで切り揃えられており、上空における寒さのせいか美しい白磁のかんばせは頬も鼻の頭も赤く染まっていた。

 首から下げられた大きな血晶石けっしょうせきのタリスマンを握りしめ、少女は強く祈る。

 ――どうか、間に合って……!

 その時だ。地上の方から、雄々しい獣の声と人々の叫び声が上がった。はっと目を向けた少女と同様に、郵便大鷲も眼下を鋭く睨む。

「郵便大鷲さん、行って!」

 少女のめいに従い、郵便大鷲は地上へ向けて猛スピードで滑空を始める。近づくにつれ人々の声が大きくなり、同時に血臭が鼻腔に届いた。怪我人が出たならなおのこと、彼女を一刻も早く現場に届けなければならない。

 ウィンプルと同じ薄青色の神官服を纏う少女。交易都市リンドブルムに在する、ルナマリア神殿所属のの奇跡が今、求められていた。



 ***



「一体何が、起こって……」

 対岸で倒れ行く木々を眺めながら、十兵衛は呆然と呟く。自分が今やろうとしたのは、目の前の男を殴り倒すことだったはずだ。それが何故湖を割って対岸の木々を薙ぎ倒すんだと、拳を震わせ戸惑う。

「先ほど言った通りだ。お前はこの星に生きる者達よりも高次元の領域で生きる者だ。次元を降りても、超えてきた次元の優位性は失われない」

「い、意味が分からん。なんで、こんな」

「生物としての格が違う、と言えば分かるか?」

 言いつつ、男が鞘に収めた打刀と懐刀をあっさり差し出した。それはすなわち、男の宣言通り十兵衛が切腹をしても死なないという自信の表れでもあった。

 十兵衛はぎり、と歯を食いしばって差し出された刀達を奪い取る。

「格が違うというなら、ここなら俺でもお前を殺せるということか」

「まさか。死の律を殺すなど不可能だ」

「そもそも殴りかかってきた不届き者もお前が初めてだ」と呆れたように嘆息する男を、十兵衛は憎々しげに睨みつけた。

 あの切腹には、「城を守れなかった事へのあがない」だけでなく八剣家の潔白を証明する意味もあった。

 介錯も無い切腹という壮絶な死にざまを見せ、二心にしんはないと知らしめること。敵方の口にも上るようなその在り方こそが、「まだしんの置ける家は残っている」と殿達に向けて全てをかけて伝えることの出来る唯一の道だったのだ。

 そんな己の全てをかけた切腹の覚悟を、この男が踏みにじったのである。十兵衛はあまりの悔しさから頭に血が上り両目に涙を滲ませた。

「……お、おい」

 十兵衛の様子に気が付いたのか、それまで不遜ふそん極まりなかった男がおろおろと狼狽した。そんな男を無視して、十兵衛は懐刀を懐に仕舞い打刀を腰に差すと、目の前の湖に向かってざぶざぶと水音を立てて進み始める。

「おい!」

「うるさい! 切腹も出来ぬというなら入水で死んでやる!」

「ばっ……! そもそも死なないと言っているだろうが!」

「やらねば分からん!」

「やらんでも分かる!」

 慌てた男が十兵衛を後ろから羽交い絞めにした。それを渾身の力で引きはがそうと十兵衛が暴れるので、透明度をほこっていた水面は泥が混じって見る間に濁り、足で蹴る度に地は抉れ大きな波が立った。

「ええい! なんでそんなに死にたがるんだ!」

「なんでそんなに止めたがるんだ! 死を司るとか抜かしたくせに! 死なんて望むところだろうが!」

「ひどい勘違いだ! 私が望むのは――」

 瞬間、暴れていた十兵衛がはっと息を呑んでその動きを止めた。

 羽交い絞めにしていた男も、目線だけを背後に送る。二人の耳に、幼い叫び声が聞こえたのだ。

「……寿命が見えるな」

「寿命?」

「こちらに迫ってくるのが、二つ。間も無いのと、そうでないのの二つだ」

 男がそう言った時だ。湖の周囲を取り囲む形で在る森の中から、赤毛の少年とそれを追う大きな影が飛び出してきた。

 朝日の光で照らされたその影の異形な姿に、十兵衛は目をみはる。

「あれは、鬼か……!?」

 身の丈八尺はっしゃくはある二足歩行のそれは、とても人間とは思えない形相だった。

 額からは二本の捻じれた角が飛び出し、赤黒い口から牙が見える顔つきは狼にも似ている。全身は黒々とした毛で覆われており、腰からは長くふっさりとした尾が生えていた。尖った爪は手足のどちらからも伸びており、立派な体躯のそれが腕を振るえば少年の身体などあっさりと分断されそうな鋭さだった。

「~~っ! ――!」

 こちらに気が付いたのか、少年が十兵衛の分からない言語で何かを叫ぶ。拘束を振りほどき「助けを求めているのか!」と十兵衛が問うと、男は首肯しゅこうした。

「その解釈で間違いない」

「っ……! よくも冷静でいられるな、お前は!」

 そう言って走り出そうとした十兵衛は、ある事に思い至り立ち止まった。先ほどの自分の力を思い出したのだ。

「おい、お前! さっきの……なんだ、あの次元なんたらとかいうやつ!」

次元優位じげんゆういか」

「そうだ! あれを無くしてくれ!」

「何?」

 男は目を瞬かせた。次元優位がある限り、十兵衛はこの星では他の追随を許さない格の違う存在となる。それを無くして欲しいと願われるなど思ってもみないことだったので驚き黙り込むと、十兵衛はもどかしそうに頭を掻きむしった。

「なんかすごい奴だというなら、なんだって出来るだろう!? 早く! あんなものがあってはぼうの手も掴めん!」

 十兵衛が懸念していたのは、あの破格の力で少年を傷つけないかということだった。いざ助けに入って力加減が分からずうっかり潰してしまったなんて、悪い冗談にもほどがある。

 意図が分かった男は得心したように頷くと、白手袋のはまった手でパチン、と指を鳴らした。

「無くす事は出来んが、これでだいじょ、ぐっ!」

「そのようだな」

 十兵衛の掌底が男の顎に決まる。「私で試す奴があるか!」と怒鳴りつけた頃には、十兵衛はすでに少年と鬼の元へと走り始めていた。



「こっちだ!」

 背後に迫る鬼から必死に走って逃げている少年に、十兵衛が声をかける。通じないまでも意図は察したのか、少年は生唾を飲みこんで十兵衛の方へと方向転換した。

 しかし、速い。鬼の駆ける速度は人外の領域である。自分が少年の元に辿り着く前に鬼の手が彼を斬り裂く方が速いかもしれないと考えた十兵衛は、走りながら一瞬身を低くして転がっていたつぶてを拾った。

 手の中で礫を転がし掴みやすい形を探り、鋭く息を吐いて投擲する。放った礫は狙い通りに鬼の眉間に命中し、苦悶の声を上げて鬼が大きくのけぞった。

 その隙にうのていで少年が倒れ込むようにやってくる。細く小さい身体を抱き留め「よく頑張った」と宥めるように背を叩くと、そのまま自分の背後へとやった。

 鬼はよほど礫がきいたのか、顔を押さえたまま呻いている。それを隙無く睨みつけながら、十兵衛は打刀を鞘から抜いて構えた。

 鬼となぞ、戦ったことはない。書物や口伝で読んだり聞いたりすることはあれど、出会うことなど初めてだった。僧侶でもなく霊力も持たない自分で果たして討てるのかと思った矢先、細い指が十兵衛の袖を引いた。

「――、~~……!」

 息もれの少年が、必死の形相で何かを語る。とはいえ日本語しか知らない十兵衛には彼が何を伝えたいのか分からない。そこで、まだ遠くにいた男に向かって「なんて言ってるか分かるか!」と通訳を頼むと、「一息に、と言っている」と端的な答えが返って来た。

「一息?」

「全部訳すと、『無茶を言ってごめん。でも、どうか苦しませることなく一息に』と言っている」

 その言葉に目を丸くした十兵衛は、背後にいた少年の顔を見た。

 彼は恐怖に青ざめながらも、己の命をおびやかした鬼に対してどこか思いやりの眼差しを向けていた。それの意図する所を察した十兵衛は、右手で少年の頭を強く撫でる。

「お前の優しさに、応えよう」

「――っ!」

「案ずるな、任せておけ。ここにいるのは、首切りにけた侍だ!」

 弾かれるように飛び出した十兵衛は、まず少年から鬼を引き離すべくわざと大振りに打刀を薙いだ。鬼も身の危険を感じたのか大きく飛び退すさり、礫をぶつけてきた十兵衛を鋭い眼光でぎろりと睨む。

 怒りの込められた咆哮は男のがなり声と狼の遠吠えの混じった耳障りなもので、十兵衛は身が竦みそうな恐怖を自身に喝を入れる事で抑え込み、打刀を鞘に収めた。



 なんとなしに少年の側までやってきていた男は、「なんで魔物の前で剣をしまっちゃうの!?」といった戸惑いの声を耳にして、思わず片眉を上げた。

「お前が望んだからだろう」

「えっ……」

「苦しませることなく一息に、と、お前は望んだだろう? あの男はそれを実践に移しているだけだ」

 少年は驚きに目を丸くして十兵衛の背を見た。

 十兵衛の体躯はこちらの基準では小柄な方だ。子午線を基準とした統一単位換算で、百七十程しかない身長は二百四十を越える魔物を前にするとあまりにも頼りない。剣士故に筋肉はあるだろうが、少年の目から見ても十兵衛は非常に細身で体格も恵まれていなかった。戦う以前の問題でそんなにも差があるにも拘らず剣を収めた十兵衛に、少年は額に冷や汗を滲ませる。

 仕掛けたのは魔物の方だった。鋭い爪で貫くべく手刀の形に変えた右手を真っ直ぐに十兵衛に伸ばす。貫手ぬきてだ。

 盛り上がった上腕の肉ははりぼてではない。見た目通りの筋力が速度となって現れ、目にもとまらぬ速さで穿たれたそれは正しく十兵衛の顔面を貫いたかのように見えた。

 しかし、ギリギリまで引き付けた状態で十兵衛がかわした。大きく体勢を崩しかけた魔物だったが、すぐさま左足を前に出す事で堪え今度は薙ぐように腕を振るう。だが、当たらない。

 十兵衛は距離を取って避けるのではなく、必ず懐に飛び込む形で回避することを心がけているようだった。踏み込む一歩の大きさで、容易に貫手の距離が伸びる事を理解していたのだ。

「……すごい」

 刹那の見切りで魔物からの攻撃を躱し続ける十兵衛を、少年は呆然とした表情でぽつりと讃えた。恐ろしい魔物を相手に距離を取らず懐に飛び込むなど、少年にとっては考えられないやり方だった。

 ともすれば死地に自ら入りにいっているようなものだ。そしてそれをいているのが自分であることに、胸を痛める。

 幾度も攻撃チャンスはあるように見えた。魔物が態勢を崩した時。懐に飛び込み、最接近した時。腰に差した剣を払えば、十分な傷を負わせられるような時は何度もあったのだ。

 だが、十兵衛は頑なに剣を抜かなかった。ギリギリで躱せているとはいえ魔物の鋭い爪がその頬を割いても、未だ。

「あの剣は切れ味がよくないの!?」

 辛抱たまらず、少年は背後に立っていた男に問いかける。

 問いを受けた男は「そんな事はない」と首を横に振った。

「この世において、あれほど切れる刀は無い」

「かたな?」

「あの剣のことだ。正しくは打刀うちがたなと言う」

 瞬間、鋭い音が響いた。魔物の貫手を十兵衛の籠手が弾いたのだ。

 息を荒げ、避け切れないと判断した攻撃を逸らす。はっと少年が目をやった先で、十兵衛が苦しそうに顔を歪めていた。

「もういい! いいよ、おっちゃん!」

 そもそも、助けに応じてくれただけで有難かった。恐ろしい脅威を相手に、殺し方まで注文をつけるなど間違っていたのだ。そう思い、少年は瞳を潤ませて声を張り上げる。

「俺が間違ってた! おっちゃんが死んじゃったら、俺……!」

「おい、なんて言ってる?」

 十兵衛に通訳を頼まれた男は、肩を竦めつつそのまま少年の言葉を訳してやる。それを受けた十兵衛は不機嫌そうに口をへの字にすると、「俺の言葉を訳して伝えろ」と言葉少なに告げた。

「おっちゃんと呼ぶな。まだ二十二だ。……それから」


「約束を必ず守るのが侍だ、と」


 十兵衛は、ずっと見ていた。魔物の貫手ではない、その足さばきをだ。

 攻撃の瞬間の足の位置。踏みしめ凹んだ土の様子から重心を学び、一定の調子で躱すことで癖づいた両足の開き方。

 ――戦いの素人しろうとだ。

 そう判断した十兵衛は、ある程度の予測をつけた上で一気に攻勢に出た。あえて弱り切った風に見せかけ、上半身をふらつかせたのだ。

 その一瞬を、魔物は見逃さなかった。渾身の力を乗せた貫手が十兵衛に向かう。

 が、魔物が予想していた結果は訪れなかった。貫手で伸びた右腕を、十兵衛が小さな体躯で受け止めていたのである。

「っ!?」

「えっ!?」

 魔物が息を呑んだのと少年が声を上げたのはほぼ同時だった。ぴんと伸びていた大きな腕が、十兵衛が肘を下に引くことであっさりと曲がる。大きく体勢を崩しかけた所で、いつの間にか横に移動していた十兵衛が魔物の足を強く払った。

 大きな衝撃が背中を襲う。何が起きたか分からないまま見上げた先にあったのは、青い空と陽光に煌めく白刃だった。

 ――嗚呼。

 魔物は刃を振るった男の顔を見つめる。黒々とした瞳はそれまでの厳しい様相が嘘だったかのように優しさに満ちており、これが彼の目指した結果であることを知った。

 一瞬の熱と共に飛沫をあげた血が、視界を覆う。それが自分のものだと気づく頃にはもう、魔物の意識は暗転していた。

「スコットおじさん……」

 震える幼い呼び声に、何も返せないままで。

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