2
シスター・イロナはヤーノシュの行方を追って、夜の荒野を突き進んでいた。
アメリカへ渡ってからしばらくは、ヤーノシュが荒らした町や村に出遅れてたどり着くのがやっとだった。けれどもしだいにその時間差は短くなり、先日はあと一歩のところまで迫ることができた。
次こそはその背に追いつくことができるはずだ。イロナは期待に胸をふくらませていた。十年ぶりの再会をはたすことができると。
ヤーノシュに会って、イロナには問わなければならないことがある。すべてはそのための十年だった。修道会の厳しい修練に耐え、多くの人狼を屠り、こんな地の果てまでやって来た。あの日、訊けなかった答えを知るために。
「どうしてなのヤーノシュ……あのとき、どうしてあなたは……」
そのとき、イロナの耳に銃声が届いた。かなり近い。誰かが襲われているような悲鳴も聞こえる。
イロナの本分は人狼狩りだが、神に仕える身として、隣人が困っていれば手を差し伸べることをいとわない。音のした場所へすぐさま駆けつけた。
どうやら馬車の列が強盗団に襲われているようだ。見たところ銃で武装した男が十名。イロナが到着したときには、襲われたほうは抵抗している様子はなく、銃口を向けられておとなしくひざまずいていた。
イロナはロバから降り、集団に堂々と歩いて近づいた。
「こんばんは」
「……ああ? 尼さんが何の用だ? これが今どんな状況かわかってねえのか?」
「馬車強盗のように見えますね」
「わかってんならさっさと失せな。見逃してやる。俺らも尼さんからカネをむしり取るほど落ちぶれちゃ――って、なんだてめえっ? その気色悪い肌の色は!」
暗くてわかりにくかったのか、ようやく彼らはその事実に気づいた。修道女に対して油断していたのにもかかわらず、肌が青いというだけで警戒心をあらわにする。いや、どちらかと言えば恐怖心か。無理もないだろう。夜の荒野でそんなモノに出くわしたら、悪魔が出たのではないかと思ってもしかたがない。
「失礼な。これでも気にしているのですよ」
「それ以上近づくな! てめえいったいナニモン――ぐああっ!」
イロナは目の前の男を手始めにジャブで沈めた。
「修道女だから見逃す良心に免じて、命だけは勘弁してあげます」
突然の事態に困惑しているうちに、二人目を金的で仕留めた。残りはよやく反応して銃口を向けようとしてくるが、この距離でマーシャルアーツの達人に勝てると思ったら大間違いだ。
「クソ! なんで当たらねえ!」
敵の予備動作を見抜き、カウンターをお見舞いするのはマーシャルアーツの基本だ。それは拳でも銃でも違わない。これだけ距離が近ければ、銃口の向きと引き金にかかる指の動きは一目瞭然だ。さらにはほんのささいなしぐさをすることで、敵の攻撃を誘うこともできる。銃弾をかわすことなど造作もない。たとえ避けきれなかったとしても、人狼の体毛が織り込まれたこの尼僧服を貫通することはできない。
またたく間にイロナは強盗団を制圧した。その気になれば殴り殺すこともできたが、宣言通り命までは取らないでおいた。縄で縛って拘束しておく。
襲われていた集団のリーダーとおぼしき人物が近づいてきた。
「ありがとうございます。シスターのおかげで助かりました。大事な商品に傷がついてしまったら、危うく破産するところでしたよ」
かなりの巨漢だ。身長もさることながら、肥満で横幅もすさまじい。まるで樽のようだ。年齢は五十代くらいで、額から頭頂部へかけて禿げ上がっている。脂ぎっていて体臭がきつく、イロナは思わず鼻をつまみそうになった。
「申し遅れました。私はジョン・バートン、見世物小屋の座長を務めております」
バートンにぶくぶくと膨れた手を差し出される。イロナは内心拒否したかったが、しかたなく握手に応じた。手汗のぬちゃりと感触で、背筋に怖気が走る。だが何とか顔には出さず耐えた。イロナとて未通女ではない。彼ほどではないが、相当肥え太った貴族とベッドで肌を重ねたこともある。ちなみにその男は人狼だったため、股間が爆発して死んだ。
「……シスター・イロナです。見世物小屋というと?」
「各地をまわって、めずらしい生き物を人々に披露しているのです。まあ、移動式の動物園とでも思っていただければ」
「なるほど」
バートンは部下とおぼしき若者に目配せして、「シスター、何かお礼をさせてくれませんか」
「お気持ちだけでじゅうぶん。神に仕える者として、当然のことをしたまで。見返りを求めて助けたわけではありません」
「まあそうおっしゃらないで。このままではわれわれの気が済みません。せめて夕食をごちそうさせてください。当一座のまかない係が、腕によりをかけて作りますので」
「……まあ、そのくらいなら」
返礼をかたくなに拒否するのもよくない。それにここ数日は、携行食ばかりで味気ない食事だった。そろそろ温かいものが食べたい頃合いだ。実際腹も減っている。
食事が出来る上がるのを待っているあいだ、イロナはバートンにべったり絡まれ、あれこれ話しかけられた。もてなされると決めた以上ぞんざいにあしらうわけにもいかない。
しかしいざ会話に付き合ってみると、意外に話しやすかった。彼が聞き上手なのだろう。イロナもつい色々しゃべってしまった。
「それでそんな肌の色に。銀の影響で青くなるとは不思議なものですな」
「そのあたりの理屈は、わたしもくわしくないので……聖銀水の製造に携わる者なら理解しているかもしれません」
「しかし肌の色が変わるとしても、人狼に襲われなくなるというのは魅力的ですな。ぜひ私も飲んでみたいものですが」
「むずかしいですね。聖銀水は素材が貴重ですし、大量生産にも向いていませんから。そもそもこの身体になったからと言って、人狼が忌避してくれるわけではありませんよ。向こうに知識がなければ普通に襲われます」
「そうなると、戦う際も人狼がひるんではくれないのですね。それでは命がいくつあっても足りないのでは?」
「手がないわけではありません。例えば血を浴びせるのは有効ですね。毛皮の表面にかかった程度では効きませんが、目にくらわせればかなりのダメージを与えられます。この身体の危険性を、じゅうぶん思い知らせることができるでしょう。もっとも、そんな小細工が必要ない程度に鍛えていますから。正面からやり合って、人狼ごときにおくれを取ることはありません」
「なるほど。確かに、先ほどの戦いを見れば納得ですな。銃で武装した複数の敵を、ああもたやすく制圧してしまうとは。しかも素手で。さぞ厳しい訓練に耐え、その強靭な肉体を磨き上げたのでしょう」
「……まあ、死なないためにはそうするしかありませんでしたし」
「シスターと比べるのもおこがましいですが、私は若いころ大道芸人をやっていまして」そう言って、バートンはふところから一本のナイフを取り出した。「これでジャグリングをね。毎日毎日手を血だらけにして、必死に練習をしていましたよ。結局才能がなかったので辞めてしまいましたが、初心を忘れないために肌身離さず持っているんです」
そのナイフはよく手入れされていて、錆や刃こぼれ一つ見当たらなかった。とても大切にしているのだろう。尊敬に値する人物だとイロナは思った。やはり人を見かけで判断するのはよくないのかもしれない。
そうこうしているうちに、ようやく料理が運ばれて来た。すでに強烈な匂いが漂って来ていたが、何やら奇妙な一皿だ。
「これは……」
見た目はトランシルヴァニアで慣れ親しんだグヤーシュに似ていないこともない。しかし色といい、どろりとしたカンジといい、どことなく排泄物のようにも見える。とはいえ、その食欲をかき立てる香りからして違うと判断できる。
「カレーです。以前インドにいたときに食べて気に入りまして、現地の人間にレシピを教わりました。アメリカでスパイスを一通りそろえるのは大変ですが、食欲には勝てません」
「以前うわさに聞いたことがあります。なるほど、これがカレーですか……」イロナは生唾を飲み込んだ。
「さあさあ、どうぞ遠慮なく召し上がってください」
食前の祈りを手早く済ませ、イロナは一口めをふくんだ。
思いのほか辛いが、ハンガリー料理のパプリカで慣れているので平気だ。スパイスの複雑な味がする。具がやわらかく煮込まれていて、咀嚼せずとも崩れていく。
「なるほど、こういう味ですか。確かに美味しいですね」
「そうでしょう。どんどん食べてください。よければおかわりどうぞ」
食べる手が止まらない。何だか気分がぼんやりして、とても心地がいい。午睡のようにまどろんでいる。食べれば食べるほど、あたたかい泥のなかに沈み込んでいくかのような――いや、待て。何かおかしい。
この感覚には覚えがある。十年前ヤーノシュの手で左脇腹の傷を受けたとき、エーディトから飲まされたパラケルススのローダナムで、今と同じような状態になった。
そしてローダナムの原料は、「――っ、アヘンか!」
イロナはとっさに皿を投げ捨て、口のなかのカレーを吐き出した。強い香りと濃い味でごまかされていた。胃のなかの分も何とか出さなければ。立ち上がって逃げようとするが、すでに足元がおぼつかない。
「おやおやシスター、食事中に席を立つのはマナーがなっていませんよ。どちらへ行かれるのです? 用を足すなら向こうにちょうどいい岩陰がありますよ」
「きさま――」
つかみかかろうとしてくるバーンズの手をかわし、拳をたたきこもうとするが、力が上手く入らない。難なく捕まり、押さえ込まれてしまう。
意識が薄らいでいく。このままでは危険だ。眠ってはいけない。何をされるかわかったものではない。
カレーを吐かなければ、カレーを――
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