バビロン

紫檀(むらさきまゆみ)

第一章「ヴェンデッタ」

プロローグ『血の日曜日』1

ホテル、ウォルドルフ=アストリアのスイートルームの一室。

遠くメインロビーの喧騒が、窓向こうの空気を伝ってわずかに聞こえてくる。


室内入口近くにある大きな姿見の前には一人身なりを整える男性。若々しさを感じさせるルックスながら、その双眸から漏れる眼光には既に深みを備えていた。

傍らには一人の側近らしき品に満ちた女が静かに控えている。


「もう間もなくか」


次第に音量を増す喧騒に男、他ならぬ “ドン・ジェノヴェーゼ” リチャード・モレッティが口を開いた。


「あと二十分ほどです」


ボスの呼吸を切り上げない、かといって彼が重ねて質問を加えようかと思索する手間を与えない絶妙な間をもって、ジェノヴェーゼファミリー “相談役コンシリエーレ” クレハ・アカネは答えた。


「ペトロフスカは来ていないな」

「はい。代理の者が出席すると」

「自分の獲物は部下であれ譲る気はないということだろうな。まったくモスクワの古狐イントリガーンが、常軌を逸した執着心だ」


此度クレハが答えに用いたのは沈黙であった。

リチャードもさしてそれを気にすることはなく、こうした主人の軽口とそれを諫める側近というやり取りがごく日常的なものであることを示していた。


「それにしてもガンビーノが来たのは意外だったな」

「ええ、トラブルもまだ起こしてないそうで」


クレハの口ぶりから僅かな含みが感じられた。その背景は当然リチャードにも心当たりがあった。


「ボナンノに面倒を起こさないよう釘を刺されでもしたか、あるいは――」


一通り身なりの確認を済ませたリチャードが廊下へ続く扉へと向かう。

優秀な顧問から特段の指摘がない事も、彼のチェックに見落としがない証左であった。


「少しは丸くなったのか」

「だと助かりますけどね。色々と」

「ふっ、希望的観測が過ぎるな」


話題に出た人物の引き起こした面倒事の数々を思い出し、リチャードは首を振りながら廊下へ出る。


「 “夕餉チェーナ” の方はどうだ?」

「最後の連絡では特に問題なしと。22分前です」

「なら心配ないな」

「それも希望的観測ですか?」

「いや――」


この日リチャードの顔から初めて漏れ出たわずかな笑みは、はたして生真面目な側近の稀な冗談のみによるものだったのだろうか。


「今夜ニューヨークは新たな時代を迎える」


喧騒の脇を通り抜け、既にぽつぽつと出席者が集い始めた宴会場の舞台裏へと向かう。

裏口をくぐり、舞台上に至る階段をのぼりながら、リチャードは三歩後ろのクレハにのみ聞き取れる音量で、しかし確かな力強さをもって囁いた。


「これは確定事項だ」

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