42:敵か味方か

「あら、あんなに辛そうだったのに、また人間やりたくなったの? 猫のほうが気楽でいいでしょ? いや絶対猫のほうがいいって。可愛いし。もふもふだし。癒されるし――」


「いや、俺は人間がいい。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、人間でいたいんだ」

 頭を下げ続けるユリウス様をドロシーは数秒、表情もなく無言で眺めた。

 固唾を飲んで見守っていると、ドロシーは不意に微笑んだ。


「……自分の意思で誘いに乗っておいて被害者面するなら虫にでも変えてやろうと思ってたけど。あなたは一度もそんな素振りを見せなかったわね。いいわ、合格。望み通り魔法を解いてあげる」

 ドロシーは小さな右手を伸ばしてユリウス様の頭に触れた。


 ユリウス様の全身が淡く白い光に包まれる。


 ドロシーが優しくユリウス様の頭を撫でると、白い光には亀裂が入り、壊れ、ボロボロと崩れ落ちていった。


 零れ落ちた白い光の破片はきらめく粉となり、地面に触れる前に消えた。


「はい終わり。これでもう猫にはならないわ」

 数秒してドロシーは手を離した。


「……ありがとう」

 ユリウス様は自分の右手を見つめた。

 胸にこみ上げるものがあるらしく、ぐっと右手を握って目を閉じる。


「良かったね、兄さん」

 ノエル様がユリウス様の肩を叩いて笑った。

 兄弟は笑い合い、私の隣でリュオンも安堵の表情を浮かべている。


 ――ああ、良かった。

 私は穏やかな気持ちで微笑み、リュオンと手を繋いだままドロシーに近づいた。


「お願いを聞いてくれてありがとう、ドロシーさん。やっぱりあなたはいい人だったのね――」


「それはどうかなあ?」


 ドロシーの口の両端がつり上がり、彼女の頭上に魔法陣が浮かんだ。


 えっ――

 目に映るものが信じられなかった。


 魔法を使うには集中力がいる。


 どんな魔女であっても一度に使える魔法は一つだけのはずなのに、ドロシーの頭上には同時に三つの異なる魔法陣が出現し、間髪入れずに視界が真っ白に染まった。


 急に全身から力が抜けて、私がその場に座り込んでしまうよりも早く。


 ――バシンッ!!


 例えるなら平手打ちでもしたかのような音が炸裂し、私の手を掴んでいたリュオンの手の感覚が消失した。


「――!?」

 リュオン!?

 叫びたかったけれど、言葉は声にならなかった。


「――捕まえた」


 泥濘の底から響くような、ねっとりとした少女の声が耳元で聞こえる。


 強烈な光によって奪われた視界が戻らず、何が何だかわからないうちに首に痛みが走った。


 どうやらドロシーが後ろに回り込み、私の首筋を抉るように強く指を押し当てている、らしい。


 振り向いて確かめることはできなかった。

 身体が動かせない。


 草原に座り込んだ姿勢のまま、私の身体は石像のように固まっていた。


 徐々に視界が回復して現実を映し出す。


 ノエル様やユリウス様にも私と同じ異常が起きているようだった。


 動こうとしても一切身体に力が入らず、声も出せず、座った状態で悔しそうにドロシーを睨んでいる。


 唯一目線を動かすことだけはできたため、辺りを見回したがリュオンがいない。


 彼はどこに行ったのか。激しい不安と恐怖で押し潰されてしまいそうだ。

 どうか、どうか、無事でいて。私は心の底から祈った。

 

「――セラを放せ」


 草で覆われた大地を踏む足音の後で、怒りに満ちた低い声が聞こえた。


 ほっとしたのも束の間、視界内に戻ってきた彼の姿を見て、声にならない悲鳴が喉から迸る。


 リュオンは身体中傷だらけで、見慣れた濃紺のローブもあちこちが裂けて変色していた。


 彼の額からは一筋の血が流れている。


 赤い血は右目に入り、頬を伝っているが、リュオンは私の背後――ドロシーを射殺すような目で睨むばかり。もしかしたら怪我をしている自覚すらないのかもしれない。


「ふふ。自分の防御を捨ててまでオトモダチを守るなんて、素晴らしい友情ですこと。セラを手放すなんて無理に決まってるでしょ? は全ての魔女が欲しがる超貴重な魔力増幅アイテムだもの」


 ドロシーの両手が背後から伸びてきて、私の身体を抱きしめた。


 まるで大蛇に絡みつかれているような気分だ。


 いますぐ逃げだしたいのに、魔法で束縛された身体は脳の指令を受け付けず、ただ細かく震えるだけ。


を手に入れたあたしに勝てる魔女なんているわけがない。あたしの攻撃を咄嗟に防ぐほどの魔女だもの、力量の差はあなた自身がよーくわかってるわよね? それでもあたしに挑んでみる? いいわよ、心が折れるまで付き合ってあげる。ちょうど退屈してたのよ。あたしと一緒に遊びましょう?」


 くすくす。私の耳元で魔女が笑う。


「ねえ、知ってる? セラ。あなたはあなたの意思で増幅対象を選ぶことはできない。つまりね、あなたの魔法はあなたの意思がなくても、あなたが生きてるだけで発動するの。必要なのはあなたの肉体であって、あなたの自我は要らない。というわけで、セラは精神的に死んでもらって、あたしが有効活用してあげるわね? これからは生きた人形としてあたしの傍にいてちょうだい」


 この世の何よりも恐ろしい魔女の手が私の頭に触れる。


 ひやりとしたものが背筋を這い上ったそのとき、リュオンが謎かけのような言葉を口にした。


「――ドロシー・ユーグレース。お前は世界で一番綺麗なものを見たことがあるか」


「は?」

 ドロシーが怪訝そうな声を上げる。


「世界で一番綺麗なもの? 何それ? 大きなダイヤモンド? 青い空? 海の珊瑚? 一面に咲いた花? それとも夕焼け? 空に輝く月?」


「違う。月より星より綺麗なものだ。おれはそれを知ってる。セラが教えてくれた」


 リュオンはふと空を見上げてから、空に似た青い双眸を私に向けた。


 彼は酷く透明な笑みを浮かべて言った。一言。ただ一言だけ。


「――ごめん」


 それは一体何に対しての謝罪なのか――

 唇は動かず、追及することもできない。


 最悪の予感に視界が滲む。身体の震えが止まらない。


 ユリウス様もノエル様も何かを必死に訴えるような顔でリュオンを見ている。


 待って、止めて。お願いだから止めて。

 ドロシーに自我を奪われてしまってもいい。


 私にできることならなんでもするから、私の前からいなくならないで――


「ドロシー。お前がセラの自我を――おれが見つけた世界で一番綺麗なものを奪うと言うなら、お前はおれの敵だ。おれはお前を斃す。どんな手を使ってでも」

 リュオンはドロシーを見つめて静かに宣言した。


「はっ、さっきからあんたは何を言ってるの? 世界で一番綺麗なもの? バッカらしい。戯言はいいからかかってきなさいよ。力尽きるまであたしと魔法を撃ち合いましょう」


 ドロシーは背後から私の隣に移動し、保護するように私を球状の光の膜で包んだ。


 両手を腰に当てたドロシーはにやにや笑っている。

 リュオンを格下とみなし、完全に侮っていた。

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