05:17年分の涙
「本当に美味しかったわ、ありがとう」
大満足で店を出た後、私は通りの端で立ち止まってリュオンに礼を言った。
「今日は会えて良かった。私は職業斡旋所に行くから、また機会があれば――」
「待て、セレスティア」
セラと呼んでほしいと言ったのに、リュオンはいまこのときだけ私を本名で呼び、強制的に別れの言葉を打ち切らせて自分に注目させた。
「まだ本当の意味でおれの質問に答えてない。レアノールの伯爵令嬢で王子の婚約者『だった』と言ったよな? 家が没落して職を求めに来たのか? それにしたって、わざわざ海を越えて、遠く離れたロドリーまで? どう考えてもおかしいだろう。一体何があったんだ?」
「……。……だから、色々あったのよ……」
過去のことは話したくない。
どうしたって自分が惨めだから。
唇を噛んで俯くと、リュオンはじれったそうに私の手を掴んだ。
「話してくれ。おれはセラの力になりたいんだ」
リュオンは射るような眼差しで訴えた。
掴まれた手から彼の温もりが伝わってきて、胸の奥がぎゅっとなる。
こんなに真剣に私の話に耳を傾けようとしてくれた人は初めてだ。
レアノールではいつだって妹が優先で、私の意思は圧殺されていた。
「……わかったわ。でも、ここでは話しにくいから、場所を変えさせて」
私は人気のない路地裏まで行き、包み隠さず事情を打ち明けた。
「……そんな事情があったのか。八年前、ためらいもせずに妹の前で跪いた時点でおかしいとは思っていたんだ。セラはずっと妹に虐げられてきたんだな」
リュオンはまるで自分が不幸に遭ったかのような沈痛な面持ちで言った。
「……辛かったな。それでも笑顔で妹の結婚式に出席するとは、セラは立派だ。よく頑張った」
「……!」
脳が揺れるほどの衝撃が走る。
そんなことを言ってくれた人は誰もいなかった。
「……何故泣く?」
「えっ。あれ。ごめんなさい。泣くつもりではなかったのだけれど。おかしいわね」
慌てて目元を擦ると、リュオンは私の頭を撫でた。
――えっ。
「あの……?」
反射的に首を竦めた後、びっくりして彼を見つめる。
「嫌なら止める」
私の頭に手を置いたまま、リュオンは選択肢を私に与えた。
青く深い海を思わせる瞳がじっと私を見ている。
「……いいえ。嫌じゃないわ。頭を撫でられるなんて久しぶり……というか、記憶にある限りでは初めてだったから。戸惑っただけ」
「両親に頭を撫でられたことはなかったのか?」
「……両親の愛は全て妹に向けられていたから。婚約者だったクロード王子もエスコートが必要な場面以外で私に触れたことはなかったわ」
リュオンは俯いた私の頭を再び撫でた。
さっきより手つきが優しくなったせいで、余計に涙が溢れ出す。
「…………っ」
左手から力が抜けて鞄が地面に落ちた。
両手で顔を覆い、肩を震わせる。
誰にも愛されなくて辛かった。苦しかった。
振り向かない背中が悲しくて、寂しかった。
十七年間、必死で抑えつけてきた感情が爆発して涙が止まらない。
リュオンは持っていた袋を足元に置き、壊れ物を扱うような優しさで私を抱き寄せた。
きっと彼は私が自然と泣き止むまで待ってくれるのだろう。辛抱強く。それこそ、何時間でも。
彼の腕の中で泣きながら私は小さく笑った。
――リュオンはこれまで出会った誰よりも優しい人だ。
昔は私の方が背が高かったのに、いまは彼の方が高い。
やせ細っていた身体には筋肉がつき、すっかり逞しい男性へと変貌を遂げた。
離れていた八年の間にお互い大人になったことを、彼の腕に抱かれながら私はまざまざと感じていた。
「……落ち着いたか?」
どれくらい時間が経ったのだろうか。
私が泣き止んだ気配を察したリュオンが抱擁を解いて一歩下がった。
「ええ。ごめんなさい」
ハンカチを取り出して目元を拭った私はそのまま俯き続けた。
声がかすれるほど泣いたおかげか気分はスッキリしているけれど、こうして冷静になってみると、恥ずかしくて居た堪れない。
子どものように泣いてしまった上に、抱きしめられてしまった。
泣き腫らした私の顔はきっと赤く染まっている。
とてもリュオンに見せられる状態ではなかった。
「謝るようなことじゃない。泣くことで少しでもセラの気分が晴れるなら、この先いくらだって付き合うよ」
大真面目な調子でそんなことを言われたものだから、私の顔はますます赤くなった。
「もちろん泣くようなことがないのが一番だけどな。そこで一つ提案があるんだが。おれが紹介するから、セラもエンドリーネ伯爵に仕えないか? 近くにいればおれがセラを守れる。万が一ブランシュ家から追っ手が来てもおれが全部追い返してやるよ」
「き、気持ちは嬉しいけれど。伯爵は魔女でありながら何の魔法も使えない私を受け入れてくださるかしら。侍女の数ならもう足りているんじゃ……」
「伯爵は慈悲深いお方だ。セラの事情を知ればきっと力になってくれる。その代わり、セラも力を貸して欲しい」
「力を貸す……?」
単純に侍女として求められるのとは違うらしいということを感じ取って、私は俯き加減のまま、上目遣いにリュオンを見上げた。
「伯爵の長男――ユリウス・エンドリーネは少々訳ありでな。いまは引きこもり状態なんだ。おれが主人の事情を勝手に話すわけにもいかないから、詳しくは伯爵かユリウス本人から聞いてくれ」
ラスファルの街を治める領主、バートラム・エンドリーネの住居は丘の上に建っていた。
丁寧に舗装された煉瓦敷きの坂道を辿って行けば、やがて三階建ての白亜の館に着く。
これは想像以上だわ……。
由緒正しい世襲貴族が住むに相応しい立派な館を見上げて、私は呆然。
伯爵令嬢だった頃に住んでいた家と比較しても、この大きさは尋常ではない。
完璧に整えられた庭には噴水や池があり、見たことのない色鮮やかな魚が泳いでいる。
これが公園ではなく個人の庭園だという事実が信じがたい。
「これが本館で、ユリウスは弟のノエルと一緒に向こうの別館に住んでる」
左手に買い物袋を抱えているリュオンは本館の前で足を止め、右手で広大な庭園の一角を示した。
そちらを見れば、庭園の一角にまた別の三階建ての建物がある。
茶色の壁に白い窓、三角に尖った屋根。
前庭ではピンクや赤、白の薔薇が咲き乱れ、建物の横には贅沢にも硝子囲いの温室が建っていた。
さすがレアノールの十倍はある大国の伯爵だ。
レアノールの公爵でもこんな豪華な屋敷には住んでいなかったというのに、似たような別館まであるとは……。
呆気に取られている私をよそに、リュオンは真鍮製のドアノッカーで本館の玄関扉を叩いた。
「お帰りなさいませ、リュオンさん」
大して待つことなく重厚な扉が開き、黒髪をポニーテイルにした侍女が現れた。
膝丈の黒いドレスにフリルのついた白いエプロン。
同色のヘッドドレスがエンドリーネ伯爵家の侍女の服装だった。
「そちらのお方は……?」
侍女は私を見て不思議そうな顔をした。
「ただいま、マルグリット。彼女はセラ。おれの客人だ。伯爵はどこにおられる?」
「執務室でお仕事をされています」
「わかった。行こう」
「ええ」
ここが正念場だ。
私は覚悟をもってリュオンの後に続き、シャンデリアが吊り下がる煌びやかな屋敷に足を踏み入れた。
衣食住を確保するために、なんとしてもエンドリーネ伯爵に気に入ってもらわなくては!
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