02:串焼きと侍女

 ロドリー王国は夏の初め。


 空は青く澄み渡り、街路樹の若葉は誇らしげに風に揺れる。

 公園では子どもたちが駆け回り、恋人たちがベンチで愛を囁き合う。


 ラスファルの街は至って平和で、道行く人々は誰も彼もが幸せそうに見えるというのに。


 私は失意のどん底にいた。

 とある富豪の館で住み込みの侍女として働いていた私は、ついさきほどその職を失い、罵倒の言葉と共に館から追い出された。


 荷物は左手に下げた鞄一つ。

 着替えの服とはした金しか入っていない財布、それからお気に入りの本が一冊。

 所持品はそれだけだ。


 旦那様は紹介状をくれなかったから、次の仕事の当てはない。

 いやまあ、あの状況で紹介状なんて書いてもらえるわけがないんだけども。


 大いに差し迫った状況である。


 これからどうやって生活していけばいいんだろう……先が見えない。真っ暗だ。


 職業斡旋所に行かないと……でも、家のない私を雇ってくれる人はいるかしら。


 肩を落とし、人でごった返した市場を歩く。


 道の左右には露店商人たちが列を作り、威勢のいい呼び込みの声があちらこちらから上がっている。


 商品は瑞々しい野菜や果物、焼き菓子や乾物、果実水など、多種多様だ。


 視覚よりも嗅覚が強く食欲を刺激する。

 甘い焼き菓子や香辛料の香り、特に焼かれる肉の香りは堪らない。


 じゅうじゅうと煙を上げる屋台の串焼きを見て、お腹の虫が鳴る。


 追い出されるにしても、せめて昼食を食べた後にしてほしかった。

 今日は朝が早かったから、お腹が減って仕方ない。


 気づかないうちに私は屋台の前で足を止めていた。


 通行人の邪魔にならないよう、屋台のすぐ近くに寄り、無言で喉を鳴らす。

 食べたい。猛烈に食べたい。

 涎が零れてしまいそう。


 でも、ただでさえ少ないお金を無駄遣いするわけにはいかない。

 困窮している庶民が厚切りの豚肉なんて贅沢すぎる。


 駄目よセラ、冷静になるの……。


「じいさん、串焼き一つ」

「あいよ。一本百デリルだ」

 頭の中で食欲と理性が壮絶な戦いを繰り広げている一方、ちょうど通りがかった中年男性が無愛想な初老の商人から串焼きを買った。


「やっぱりログじいさんの串焼きは最高だなァ……塩加減が絶妙で……」

 目尻を下げ、頬を緩ませ、中年男性はぶつぶつ呟いている。


 その言葉が嘘ではない証拠に、彼は口の周りを肉汁で汚しながら豪快に串焼きを平らげていった。


 店先で美味しそうに串焼きを食べる彼の姿はこれ以上ない宣伝になったらしく、俺も、私も、と次々に客が押し寄せる。


 店の周囲で串焼きを頬張る客たちの幸せそうな表情といったら。


「………………」

 もはや辛抱堪らず、私は財布を鞄から取り出し、所持金を確認した。


 ――百デリルならギリギリ足りる!


「私も一本ください!」

 私はほとんど全財産である硬貨を握り締め、差し出した。


「あいよ」

 初老の商人はお金を受け取り、串焼きを私に渡した。

 湯気を立てる串焼きを見下ろして、ごくりと唾を飲み込む。


 次はいつ食事にありつけるかわからない。心して食べよう。


 ――いざ!

 大きく口を開いたその瞬間、斜め後ろから通行人に押された。


 ほとんど突き飛ばされるほどの衝撃を受けて、大きく体勢が崩れ、右手から串が離れた。

 串が地面へ落ちて行く様子が酷くゆっくり見える。


 引き伸ばされた時間感覚が正常に戻ったとき、串焼きは見るも無残な墜落死体と化していた。


「あああああああああ――っ!!」


 十七年生きていてこれほど悲痛な悲鳴を上げたのは初めてだ。


 あまりのことに膝を落とし、四つん這いになって串焼きを見下ろす。


 愛しの串焼きは砂に塗れてしまっている。


 いいえ、なんのこれしき、洗えば食べられる!

 たとえ塩が洗い流され、味がなくなっても肉は肉!


 人間、食べなきゃ死ぬんだから!

 他人の視線が何よ、矜持で腹は膨れない!


 恥も外聞もかなぐり捨てて手を伸ばす。

 けれど、私が拾い上げる前に、串焼きは通行人の足によって踏み潰された。


「ああっ!?」

「うわ、なんか踏んだ。汚ねえ」

 若い男性は顔をしかめ、靴の底を何度か地面にこすりつけて去っていった。


「………………あああ……」


 終わった。

 四つん這いになったまま、私は伸ばしかけた手を下ろし、深く深く項垂れた。


 いくら空腹とはいえ、さすがに他人の靴で踏み潰された串焼きを食べようとは思えない。


 私の全財産が……貴重な栄養源が……。


「大丈夫ですか? すみません、ぶつかってしまって……」


 申し訳なさそうに屈んで声をかけてきたのは、左手に茶色い袋を抱えた端正な顔立ちの男性だった。


 こちらを見て、彼は驚いたようにその目を大きくした。


 長身に纏うのは仕立ての良い上等な濃紺のローブ。

 茶色にたっぷり灰色を混ぜたような美しいサンディ・ブロンド。

 深い海を思わせる紺碧の瞳。


 その青い虹彩に金色の環――通称《魔力環》が浮かんでいるのを見て、私もまた驚きに目を見張った。


 ――私や妹と同じ魔女なんだ、この人。


 魔女とは魔力を持った者の総称。


 遠い昔、創造神オルガは「相互扶助の精神を持って、良き隣人となりなさい」と唱えて人間と魔女を作ったという。


 混血を繰り返すうちに女性だけではなく男性の魔女も生まれるようになったけれど、男性の魔女は非常に珍しい。


 私自身、人生で男性の魔女に会ったのはこれで二回目だ。


 偶然にも、初めて男性――正確には年端も行かない男の子の魔女に会ったのは八年前、このロドリー王国の王都でのことだった。


 男性の魔女の魔力は大抵が平均値を保つ女性に比べて極端に高いか低いかのどちらかだ。


 視線を落として確認してみれば、彼が首に下げている金のペンダントは魔女の最高位『大魔導師』を表していた。


「…………!!」

 私は今度こそ、極限まで目を剥いた。


 凄い! 

『大魔導師』の称号を持つ魔女は国内にたった三人しかいないのに、まさか会える日が来るなんて!!


 でも、なんでこんなところにいるんだろう?


『大魔導師』たる魔女なら王宮仕えをしていてもおかしくないけど、街の有力者にでも仕えているんだろうか?


 王侯貴族や富豪は一種のステータスとして魔女を側に置く者が多い。

 事実、私の主人も一人の魔女を仕えさせていた。


 けれど、彼が何者かなんてことより大事なのは彼の発言。

『ぶつかった』ということは、彼が犯人で確定。

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