和真:04話 耳に届く声

 川瀬くんの原稿を受け取って、僕は一度編集室に立ち寄った。デスクの上で原稿をケースから取り出すと、ダブルクリップで留められた原稿の一番上に、小さく畳まれた紙が挟まっていた。


 不思議に思って開いてみると、黒マジックの大きな文字で何かが書いてある。よく見るとそれは何かのURLのようだった。そして最後に「音声ファイルです」と一言、更に大きな文字で書いてあった。


 一瞬、何のことだか分からずに僕はその紙を手に、考えた。「音声ファイルです」それしか書いていないその素っ気なさが、彼らしいようで僕はつい小さく笑ってしまった。


 周りのみんなが一瞬静まり、僕の方を見ているのが分かる。僕はすぐに紙を小さく畳んでポケットに押し込み、咳払いをひとつして席に座った。定時を少し過ぎ、キリのいいところでデスクを片付け、やりかけのファイルを保存して退社する。


 途中のスーパーに寄り道をして、部屋に着いたのは八時過ぎだった。シャワーを浴びて簡単な食事を済ませ、メールのチェックをする。未開封のメールを全て読み、返信し終わったあとPCを閉じると、テーブルの上にある白いものが目に入る。手を伸ばして触れ、それがあのメモだと思い出す。ポケットから出してテーブルに置いていたのだった。音声ファイル、と書いてあったな。


 僕はもう一度その紙を開いて、中身を確かめる。黒々と太く書かれたそのURLをPCの検索窓に打ち込むと、クラウドのファイル共有サービスサイトが表示される。「ダウンロードする」をクリックするといくつかに分かれたファイルが表示された。僕はヘッドホンを耳に当て、再生ボタンにカーソルを合わせそっとクリックしてみる。


 しばらくの間、サーっという遠い環境音が続き、ヘッドホンの向こうに人の気配がする。マイクを触る音に少しだけ驚いて、僕は耳を澄ませる。小さな咳払いの後に聞こえてきたのは、何度も聞いて、もうすっかり覚えた声だった。ゆっくりと落ち着いたトーンが心地いい。


 しばらく聞いていると、それが小説の朗読だとわかった。原稿を読めないと告げてから、きっとあれこれ思案したのだろう。真面目というか、一途というか。自己紹介も説明もなく、淡々とタイトルを読み上げ、彼は自分の書いた小説をその声で僕に聞かせる。


【――その肖像画がオークションにかけられたのは、事件から十二年後の事だった。たった一枚の絵、それも画家として他に作品を持たない男の絵が、これほどに世間の耳目を集めたのはその絵にまつわる事件の内容がいたずらに好奇心をかき立てるものであったからだ。それは画家の遺作であり生前の画家は死の直前に自分のアトリエで、ある人物を描いた。それが誰であるかを知るものは画家自身以外にはなく、肖像画にもモデルとなった人間の名は記されていない――】


 彼の声で読み上げられる物語は、生真面目で、どこか硬さを感じる文章だった。大学生だし、もう少し明るくて、それでいて冷めたような若者の話なのかと予想していた僕は少し意外に思った。低く響く声が、僕に語りかけてくる。僕は目を閉じてソファーにもたれ、初めて彼の声を聞いた時のことを思い出す。


 あの日は溜まった仕事がかなりあって疲れていた。ひっきりなしに電話の呼び鈴が響くオフィスから逃げ出して、よく行くコーヒーショップに避難した。すっかり遅くなってそろそろ帰ろうとした頃、突然後ろから人の気配がぶつかるように覆いかぶさってきて、僕は咄嗟に体を縮めて息が止まった。


 頭のすぐそばで、すみません、と謝る声に僕はやっとなんとなく状況が飲み込めた。若い男性店員が僕のコーヒーのグラスをひっくり返して、必死に謝っていた。


 そのあとしばらくして、僕はもう一度その声を聞く。電車の中でのいさかいで、乗客がざわめいているのを不安に思いながら耳を澄ますと、聞き覚えのある声が女性を庇って男を叱責した。僕はしばらくその声の主を思い出せなかったけど、コーヒーの香りを嗅いだときに、ふっとあの大柄な店員を思い出した。


 そして三度目、僕が男にぶつかって絡まれていたあの夜、彼らと僕の間に入ってくれた人物。僕は何が何だか分からなくてパニックになりかけていた。腕を掴まれて恐怖を感じたとき、名前を呼ばれてすぐにわかった。川瀬くんの声だと。


 ヘッドホンの向こうで、声の合間に彼の息遣いが聞こえる。それが妙に近くに感じられて、僕は肩を震わせた。彼のことを思い出していたせいなのか、すぐ隣りにいるような錯覚が僕の心臓をぎゅっと掴む。深呼吸をして僕はもう一度物語の中へと沈む。


【窓辺の長椅子に座った彼は、ほとんど身じろぎもせずにじっと私を見ている。その姿をどうにかキャンバスに写し取ろうとしている私を憐れむようなその視線に耐えきれず、私は彼の目を赤いスカーフで覆った。彼はほんの少しだけ微笑んで抵抗もせずに目隠しを受け入れる。彼の柔らかい黒髪の間を私の指が滑る。目を塞がれた彼はその髪の毛一本の感触にさえ繊細に反応した。微かに首をかしげ、私に晒された小さな耳には、その血管が赤く透けて見えた。絹のスカーフが柔らかく彼の眼窩を覆い隠し、私の手がその小さな耳を掠めてスカーフを緩く縛ると、彼が震える息を吐き出した。それ以来、私が絵を描くたびに彼は目隠しをしたがった。そうしてそのままの姿で、私にあれこれと命じるのだった】


 ずいぶん官能的な文章を書くんだな、と僕は思った。僕の印象ではわりと無愛想というか硬派なイメージだったけど、こんなに切なく思う相手がいるんだろうか。


【そしてある時はさくらんぼが食べたいと私にねだった。甘いシロップに浸かった、アメリカンチェリーの缶詰が欲しいと。手に入れたそれは目が眩むほど甘いシロップに沈んだ赤黒いチェリーだった。それを見せると彼は缶に指を突っ込んで美味そうに食べた。指についたシロップを舐め、さらには缶の中のシロップも一滴残らず飲み干す。なるほど、彼の薄皮の下を流れる血はあのシロップのように甘くあのチェリーのように黒いに違いない。

「そんなにそれが好きなのか」私がそう尋ねると、彼は子供のように微笑んで無邪気に答える。「ああ、これが一番好きなんだ」そう言って指先のシロップを、名残惜しげに舌で舐め取った】


 不意に耳に飛び込む言葉に、僕は思わずヘッドホンを外す。今まで数え切れないほどの小説やプロットを読んできた。その中にはありとあらゆる人間の業や欲が描かれていたし、官能小説だって散々読んだ。


 その僕が、こんなに淡い表現で心臓が飛び出しそうになるなんて、どういうことなのか理解できなくて、僕は機械的に冷めたコーヒーのカップを口に運んだけど何の味もしなかった。活字で読むのとも、合成ボイスで淡々と読み上げるのとも違う、彼の声が僕の感覚の深いところのスイッチをオンにしてしまうようだった。僕の中に入ってきて、安心させて、かと思えばとても敏感な場所に響いて僕の芯を震わせる。


 情けないことに冷静でいられない僕は、まだたくさんのファイルを残したまま、再生を終えてベッドに潜り込んだ。子供じゃあるまいしこの程度でドキドキしてるなんて、笑い話にもならない。

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