05話 電車での騒ぎ

 そのうちにそろそろ次の店に、という流れになり、キリがいいので俺は伊織に金を渡してここで抜けることにした。するとその様子を見ていたアヤちゃんの友達が、大声を出す。


「えー、川瀬くん二次会行かないのぉ? みんなで行こうよー」


「いや、俺明日早いから……」


「ねえ、じゃあ今度! 今度また一緒に飲もうよ! ねえアヤ! 川瀬くんのLINE教えてもらいなよ!」


 そう言ってアヤちゃんを俺の前に押し出す。アヤちゃんは困ったように顔を赤くして俯いている。これで嫌だと言えば彼女の顔が立たないだろう。俺はスマホを取り出して彼女に俺のアカウントを教えた。


 初めて送られてきたメッセージで、アヤちゃんは彩夏あやかちゃんだと知った。酔っぱらい共のエンドレスな「じゃあね」やら「また今度」やらを振り切って、俺は駅への道を急ぐ。


 終電までにはまだ余裕がある。明日は休みだから、今日も映画を流し見しながら深夜まで小説を書ける。俺は駅の階段を駆け上り、発車メロディーが流れ始めた電車のドアに滑り込んだ。


 金曜の夜、それなりに混んでいる車両の奥、俺は壁に寄りかかり、イヤホンを着けて暗い窓の外をぼうっと眺めた。網棚のパイプを掴んで背中を丸め、時折窓に映る自分の顔を見る。


 いつもより遅い電車の車内には仕事帰りであろうサラリーマンが多い。俺も来年には本格的な就職活動を始めないとな、などと思いながら暗いグレーのスーツに身を包んだ彼らを眺める。ドアの前にはスーツ姿にリュックを背負って、まだ学生ぽさの残る若い男性。先輩たちも今はこんな感じなんだろうか。座席の端に座った、左胸にきっちり社章をつけた白髪まじりの男性は老眼鏡であろう厚い眼鏡を掛けて本を読んでいる。親父もこんな風に通勤してるのかな。


 人の多いところで俺はこうしてよく他人を観察している。この人にはわがままな恋人がいて、いつも帰りが遅いのを怒られているんだろう、とか、この女性はバリバリのキャリアウーマンで、金曜の夜にはちょっといい酒を飲んでいる、とか。


 勝手に彼らを主人公にしたショートストーリーを考える。斜め前の席でスマホに視線を落とす男性は、……なんとなく誰かに似てるような気がする。そう思ってしばらくその人を眺めて、俺は思い出した。あの夜バイト先で見かけた、物静かで不思議な雰囲気をまとった男性のことを。


 あの人が主人公だったら……俺は想像した。あの掴みどころのないどこか儚げな視線を、どうにか自分に向けさせようと躍起になるモブを尻目に、ただ自分の欲望に忠実に奔放に生きる彼。そしてそんな彼にのめり込み、自分を見失っていくヒロイン……まるでわがままな少女か、女王様みたいなキャラが思い浮かぶ。年上の男性に、女王はどうかと思うが、困ったことに似合い過ぎるので次から次へと妄想が膨らむ。


 そんなことを考えているうちに、電車は一つ目の駅に着き、何人かの人が乗り込んでくる。混み合ってきた車内、発車の揺れにパイプを強く掴みながら窓の外を見る。視線を少しずらすと、隣に立っている女性に目が留まった。心なしか辛そうに顔をしかめて、吊り革を握る手が震えているようだ。具合でも悪いのだろうか、俺は声を掛けるかどうか迷いつつ、様子が気になって窓越しに彼女を見た。


 すると彼女がしきりに背後を気にしていること、そして彼女のすぐ後ろで顔を隠すように下を向いた男が立っているのに気がついた。俺はなんとなくその男の仕草に違和感を抱く。まさか——


 酔った頭をフル回転させて俺は考える。彼女とその後ろのサラリーマン、気付かれないように観察して確信した俺は、女性のウエストや腰のあたりを撫で回す男の手を確認した。痴漢だ。


 俺はイヤホンを外して窓越しに彼女をじっと見る、俺の視線に気づいた彼女と目が合う。悔しさと怒りの混じった彼女のその表情。間違いない。次の瞬間、俺はその中年男の手首を思い切り掴んだ。俺の握力は左手でも六十キロはある。振りほどくことはできないだろう。男は、慌てふためいて騒いだ。


「痛って! な、何するんだお前、離せよ! 痛てえな!」


 男の間抜けな叫び声に、周囲の人間が一歩後ずさる。俺は中年男の手首を掴んで軽く捻ったまま、隣の女性を見る。彼女は驚いて放心したように俺と中年男を見ていた。俺は静かに彼女に尋ねる。


「どうしますか、こいつ。――突き出すなら一緒に行きます」


 怯えたように俯いていた彼女ははっとして、目を見開く。俺は彼女の答えを待った。彼女は大きく息を吐き出すと、意を決したように低く静かに答えた。


「……警察に、届けます。手伝っていただけますか」


 俺は黙って頷き、男の手を握る左手に力を込めた。すると男は悲鳴のような声を上げて騒いだ。


「ふざけるな! 俺は何もしてない。――お前、傷害で訴えるぞ! このクソガキが!」


「騒ぐな! 俺はあんたのしたことを見てた。証拠の写真もある。犯罪者はあんたの方だ。おとなしく俺と一緒に次の駅で降りろ」


 静まり返った車両に俺の声が響いた。中年男は顔色を失い、俺のハッタリにも気づいていない。何事かと遠巻きにしていた乗客にも状況が飲み込めたようで、やがてまたザワザワとした騒音が戻ってきた。女性は小さな声でありがとうございます、と言って俯き、そのまま次の駅まで一言も喋らなかった。


 次の駅で女性と一緒に降り、中年男を駅員に引き渡す。駅員には俺からも事情を話し、万一男が否認するようなら証言すると伝えて、俺はそこで別れた。女性は最後にもう一度、ありがとうございますと言ったが、そのときにはもう彼女の顔からは怯えの色は消えていた。


 俺は彼女の後ろ姿を見送る。階段を降りていく背中が見えなくなり、はたと気づく。慌ててホームの時刻表を確認し、アパートの最寄り駅に向かう電車がまだ二本あるのを見てほっとため息をつき、イヤホンの音楽のボリュームを上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る