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アパートに住んでいた老夫婦は、
駅前の駐車場に車を停め、そこから長い坂を上り切ると、淡いピンク色の外壁の大きな建物が見えた。どうやら、楠トメが入所している施設のようだ。岩山田はジャケットのポケットからハンカチを出し、汗を拭いてから、建物に入る。
「すみません、楠トメさんに会いたいんですが」
受付の窓口に座っている細身の男性に声をかける。
「楠さんですか? えっと、ご家族の方ですか?」
「あ、いや、こういうものです」
岩山田は警察手帳を見せる。
「え、警察の方ですか?」
職員は明らかに動揺していた。
「ちょっと、今施設長に聞いてきます」
上ずった声で駆けていってしまった。
「何かあるんですかね」
鈴木が眉間に皺をよせる。
「いや、おそらく本人に会わせてもいいか確認に行ってるだけだろう。面会は家族だけ、と決まっている施設なんだろう」
鈴木は口をとがらせて「ふーん」と小さく言った。高齢者の施設のことなんてわかりません、という態度だった。若者らしいな、と岩山田は思う。苦々しく思ったのではなく、新鮮に感じた。自分がとうに失った、瑞々しさだった。
恰幅の良い、柔和な顔の中年男性がゆっくり歩いてくる。
「施設長の
「岩山田と申します。十年前に横浜市でコンビニエンスストアに強盗が入りまして、そのとき楠さんは近所にお住まいでした。詳しいことはお話できないのですが、当時の状況を今調べ直しています。少しでもお話が伺えないでしょうか?」
施設長は「うーん」と腕を組み「穏やかならぬお話ですね」と言った。
「トメさんは、認知症を患っています。ご主人がお元気だった頃は、ご主人と一緒に暮らしてらしたんですが、ご主人が亡くなってから、トメさんの病状は悪化しました。今は、まともに意思疎通のできる時間と、そうでない時間と、半々くらいです」
「すごく昔のことはあまり忘れないと聞いたことがありますが」
岩山田は、ここ最近のことではなく十年前のことを聞きたいのだ、と施設長に強調した。
「はい。わかります。でも、ちょっと刺激的なお話なので、私も同席のうえ、ご本人に負担のない範囲でよろしいですか?」
岩山田は頭を下げた。
「ご協力感謝いたします」
鈴木も慌てて頭を下げた。
楠トメは車椅子に乗って看護師に連れてこられた。整えられた白髪が美しく、表情は穏やか。施設長の斎藤がトメに向かって、刑事たちの知りたいことを代わりに聞いた。
「トメさん、ずっと昔、十年くらい前に、まだお父さんとアパートに住んでたとき、近所で物騒なこと、ありました?」
耳が遠いのだろう。斎藤は耳元で大きな声で話す。
「ああ? お父さん来たの?」
トメがぱあっと嬉しそうな顔になる。
「違う違う。お父さん今日は来ないよ。昔、お父さんとアパートに住んでたでしょ? 横浜の」
トメは自分の夫が他界していることを理解していないのか、もしくは忘れてしまっているのだろう。岩山田は、記憶を失くす、という現象の恐ろしさと、同時に不思議な愛おしさを感じた。
「あぁ、住んでたわ、横浜の」
「そうそう。そのとき、近所で物騒なことあった?」
「あー、あれは、そうな、暑い日にな、警察の人が来たのよ。近所の店に泥棒が入った言うて。でも、私もお父さんも寝とったし、何か不審な音は聞きましたかー? 言われたけど、耳が遠いから、なーんにも聞いとらんかった」
「そのときのことで、何か新しく思い出したことある?」
トメはしばらく考えてから「お父さんは今日来るのかい?」と言った。
施設長の斎藤は「今日は来れないみたいですよ」とトメに言ってから、岩山田と鈴木に向かって苦笑した。
「すみません。おそらく、今ちょうどはっきり意思疎通できるタイミングみたいですが、それでも、これ以上のことは思い出せないかと思います」
岩山田は、例えこの老婆が何か思い出したと証言したところで、証拠能力がないと判断されるだろうな、と思った。期待して来たわけではないが、証拠というものは時間とともにどんどん失われていく。刑事として歯がゆいことではあった。
「ありがとうございました」
岩山田と鈴木は礼を言って施設を後にした。相変わらず夏の空は晴れ渡っていて、日差しが強い。
「なんか、切ないっすね」
鈴木は車に戻るなり、汗を拭きながら言った。
「ご主人が亡くなってることも忘れちゃうなんて、切ないっすね」
鈴木は認知症の人と触れ合う機会がなかった。自分の祖父母はまだ元気だし、頭もはっきりしている。楠トメのあの状態で「意思疎通の一番とれるタイミング」なら、「とれないタイミング」のときはどれほどに忘れてしまっているのかと考えると、怖くて見たくない気がした。
「そうだな。切ないが、まあ、ご主人が亡くなっていることを忘れられたほうが、本人にとっては過ごしやすいってこともあるんじゃないか」
岩山田の感じた不思議な愛おしさは、この記憶のあり方によると思った。死んでしまったことをずっと思い出して悲しみに暮れているより、生きていると思ったまま「今日は来るの?」と来訪を楽しみに生きるほうが、希望があるように思えたのだった。
「そうっすかね」
「どちらにせよ、楠トメの証言は証拠能力がないだろう。次行くか」
「はい」
鈴木はまだ空調の効ききらない車を、駐車場から走らせた。
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