006 児戯にも満たず
道路に出るまでの道のりを半分ほど進んだところで、マグラートは足を止めた。
「……ん?」
首をかしげ、振り返る。
もちろんそこには誰もいない、夜の闇があるだけだ。
だがその闇の向こう――死神の谷のほうから、何かの気配を感じる。
「フランシスは確実に殺した。妹のほうも、あの高さから落ちて生きてるわけがねェ。そうだよな? なァ、俺。そのはずだよなァ?」
だが、胸騒ぎは落ち着かない。
こういう“得体の知れない違和感”は、大抵の場合、何らかの形で具現化する。
マグラートは「チッ」と舌打ちすると、来た道を引き返した。
そして、メアリーが落ちた場所までやってくる。
「やっぱ何もいねえよな。俺ちゃん、何をビビっちゃってんだか。死んだ死んだ、メアリーは確実に死んで――」
ザッ、ザッ、ザッ。
聞こえる。
何かが登ってくる音が。
感じる。
巨大な力の気配を。
それは確実に、奈落の底から、こちらに近づいてきている。
「じゃあ、これは何だ? 何が登ってきてんだよ。このチビりそうなプレッシャーは一体、何なんだよ!」
怒鳴りつけても、人の声で返事がくることはない。
音はまったく同じリズムを刻んで、ザッ、ザッ、ザッ、と近づき――ついに、地表に到達する。
“白い爪”が崖の縁に引っ掛けられた。
少し遅れて、もう一方の爪が、大地に突き立てられる。
「……骨、だと?」
その爪、そしてそこに連なる大きな――人間のそれと比べて数倍の大きさの“手”も、骨で作られていた。
そして両腕に力が込められ、“肉体”が這い上がる。
「よいしょっ……と」
少女――メアリーは、かわいらしい声を発しながら、そこに立った。
彼女が着ているのは、破れてボロボロになったドレスではなく、新品さながらの、黒と白のゴシックドレス。
だが令嬢然とした衣装とは裏腹に、手の形状はグロテスクだ。
本来付いているべき人間のそれは、内側から突き出した骨によってズタズタに引き裂かれ、ボロ布のようになっている。
代わりに手首から先に生えているのは、鋭い爪を兼ね備えた、無骨な――他者を傷つけるためだけに存在する骨の手だ。
彼女はその手でスカートの端をつまんで、脚を交差させ、可憐なカーテシーを見せつける。
「ごきげんよう、マグラートさん」
マグラートは、強い悪寒を感じ、後ずさる。
柔らかな物腰、そして穏やかな表情とは裏腹に、メアリーは強烈な“死の気配”を纏っていたからだ。
『だったら、なぜ父上がメアリーを殺そうと思ったのか聞いていないか?』
彼はふいに、電話口でのロミオの言葉を思い出す。
そしてその理由が、今まさに、目の前にあるのではないかと、そう直感する。
(『
動作もなく、視線もぶれず、音もなく――問答無用に理不尽な暴力を叩きつけるマグラート。
感知することなどできるはずない、一方的な暴力がメアリーに迫る。
すると彼女は右腕を前に突き出し、見えないはずのそれを、手で掴んだ。
ギイィィィッ、と手のひらの中で、骨を削りながら回転する見えない力。
それをメアリーは、力ずくで握りつぶす。
「ボール遊びですか? 懐かしい、子供の頃以来です」
彼女はその体勢のまま、にこりとマグラートに笑いかけた。
「……ハ」
彼は、思わず半開きの口から息を吐き出した。
本能が、警笛を鳴らす。
すかさず両脚に力を込め、ふくらはぎの筋肉がきゅっと締まり、地面を蹴る予備動作を完了。
(
すぐさま後退はしない、相手の様子をうかがう。
「は……あはは! だったら次は鬼ごっこにしましょう! 私が鬼! あなたが肉! タッチして刻んで潰したら私の勝ちですっ! あ、は……はぁああっ、んぁぁああんッ!」
悩ましげな声をあげるメアリーの背中から、新たな骨が現れる。
またしても手、だが今度は腕から全部が骨だ。
見上げるほど長く、手のひらは人の大きさほどある――それを、
「ほら、逃げてくださいよ! 得意なんですよね? 大好きなんですよねっ!」
彼女は鋭くマグラートに振り下ろした。
「チィッ、俺は鬼専門なんだよッ!」
すでに回避の準備は出来ていた。
大きくバックステップするマグラート。
前方を掠めていくメアリーの骨腕。
ズゥンッ、とその手が地面を叩き、大きく砕く。
まったく当たっていない、距離も離れている。
だが遅れて彼の顔に吹き付けた風が、ピッと浅くその目元に傷をつけた。
「この距離でも風圧だけでッ!? ハッ、たまんねェな!」
メアリーは叩きつけた腕の反動でふわりと宙に浮かび、頭上からマグラートに迫る。
「今度こそは潰します! ぐちゃぐちゃのミンチですっ!」
「『隠者』ッ! パーティータイムだッ!」
逃げながらもマグラートは力を行使する。
無数の魔力弾が――見えないが彼の周囲に浮かび上がる。
そして彼が腕を振ると同時に、それらは大きく遠回りしながら、取り囲むようにメアリーを狙った。
前後左右、平面的ながらも、空中のメアリーにとっては逃げ場のない攻撃。
彼女は背中からもう一本の巨大な腕を生やすと、もう一方の腕も広げ、ぐるりと回って見えない弾丸を薙ぎ払った。
「シャボン玉遊びですかぁ? 私も好きでした、子供の頃は!」
「大人の遊びのつもりだったんだがなあ! ぐうぅッ!」
そこで生じた旋風に、マグラートは顔をかばうように腕をクロスさせる。
一方でメアリーは着地し、背中から伸びる腕の射程圏内まで接近した。
「この距離なら――避けられませんね。死者百人分の
「そうはいかねえ、防がせてもらう!」
ガゴォンッ!
メアリーの繰り出した拳が、マグラートに真正面から叩きつけられる。
彼はとっさに、隠者の力でシールドを作り身を守ったが、防ぎきれる威力ではない。
吹き飛ばされ、背中から木に衝突した。
「がっ、あ……とんでもねぇ威力だ……てめぇ……さっきまで、魔術評価ゼロのかわいいお嬢ちゃんだったろうが……! だってのにィ――何なんだよ、その素敵な有様はッ!」
「知りません。わかりません。私が教えてほしいぐらいです。見ればわかるんじゃないんですか?」
「ははっ、たしかにそれもそうだ。アナライズ!」
メアリーの魔力評価値が、マグラートの視界に表示される。
「はッ……なんだよ、それ。おかしいだろ、どう考えても」
マグラートは目を疑った。
理解はできる、それぐらいはないと説明できない。
だが、そうなった原因がわからない。
「それ、私も使えるんでしょうか。確か、瞳に魔力を込めて、“アナライズ”と唱えればいいんでしたよね……あ、見えた。マグラートさんの魔術評価は、8751。やっぱり、お姉様より上なんですね。さすがアルカナ使いです」
他人事のように言うメアリーに、マグラートは声を荒らげた。
「ふざけるなよぉッ! てめえの魔術評価、15000もあるじゃねえか! どうして、どうして、どうしてッ! どうして世界に愛されてる俺より上なんだよぉぉおおッ!」
何かが彼のプライドを傷つけたのだろうか。
頭をかきむしり、ギリギリと歯を鳴らし、怒り狂った。
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