004 腐肉のベッドで眠る

 



 アルカナ使い――男がそう名乗った時点で、メアリーの中にあった“希望の前提”は尽く崩れた。


 だが幸か不幸か、今の彼女にはそれを考える余裕すらない。


 メアリーはとっさに後ずさり、男から距離を取った。


 すると見えない何かが彼女の肩を掠め、砂で汚れたドレスと肌を浅く切り裂く。




「いづっ……! は……あ、あ……死にたくない……私は、死にたくないっ!」




 男に背中を向けて走り出すメアリー。


 彼はその様を見てわらう。




「鬼ごっこか? 俺、結構好きだよそういうの。昔サァ、よく友達と一緒に遊んだんだよ! もちろん俺が鬼! いつだって鬼! だって俺は鬼だからァーッ! あっはははははは!」




 背後から聞こえてくる笑い声に振り向くこともなく、メアリーはひたすら真っ直ぐに走った。


 ここは枯れた森、身を隠せる遮蔽物はない。


 だからせめて遠くへ、夜の闇に隠されて見えなくなる距離まで離れなければ。


 しかしメアリーはしょせん、魔術すら使えない十六歳の少女に過ぎない。


 全力で走ったところで、軽く流すように走っているだけの男との距離は離れなかった。




「はっ……はっ……はっ……死にたくない……死にたくない……死にたくないぃっ……!」




 それでもなお、自分にそう言い聞かせて走るメアリー。




「お嬢ちゃーん、待ってくれよー! あはははっ! そんなに必死に走ってどこに行くんだ? その先にあるのは死体が積もったゴミ捨て場だけだ! それとも俺が手を下すまでもなく、自分で死んでくれるのかーい!?」




 挑発するように――あるいは、その追いかけっこを心から楽しみながら、追跡する男。


 それまでメアリーは振り向かないようにしていたが、どうしても距離が気になる。


 足を止めること無く首を回す。




「やっとこっちを見てくれたネェ!」




 男は頬に皺を寄せて不気味に笑っている。


 すぐに前を向いて、走った。


 しばらく走って、再び振り返る。




「そんなに俺のことが気になるのかーい?」




 距離は変わらず――そう、異様なまでに変わらない。


 何度振り返っても、どれだけ速度を早めても、逆に体力を消耗してスピードが落ちても変わらない。




「おーい! 待っておくれよー! あははははっ! たーのしいなー! 鬼ごっこはやっぱりいいよねェーッ!」


(私、遊ばれてるんだ……)




 そう理解して、どうあがいても生存は難しいという事実を認めながらも、それでも悪あがきを続けるメアリー。


 そして再度、振り返る――




「あれ、いない?」




 前方に視線を戻す。




「やあ、また会ったね♥」




 目の前に、笑顔の男がいた。




「ひぃっ――!?」




 肺がぎゅっと縮まり、息を吐き出しながら引きつった声を出すメアリー。


 すぐさま逃げようとしたが、




(何かが、私の腕を掴んでる……!?)




 見えない何かに右腕を拘束され、離れることができない。


 そして次の瞬間、その“何か”は軽く力を込め、パキッとメアリーの腕をへし折った。




「あ――あ、あぁああっ、いぎっ、あぁぁぁぁぁあああああああああッ!」




 メアリーはその急激で強烈な痛みに、甲高い声で、大きく叫ぶ。


 痛みに全身から冷や汗が噴き出して、体が言うことをきかなくなり、「はっ、はっ、はっ、はっ」と小刻みに肺を震わせながらのたうち回る。




「腕えぇぇっ! 私のっ、腕っ、腕がっ、がひっ、ひいぃいぃっ!」


「いい顔だねえ、鬼をやった甲斐があったよ。さあ、じゃあ第二ラウンドの始まりだ。早く逃げてー! 逃げないとぉ、今度は脚も折っちゃうゾ♪ ま、魔術評価ゼロのか弱い女の子じゃ、逃げられるわけもないんだけどサ! あはははははははッ!」


「い、いやあぁっ! いやぁぁぁぁあああっ!」




 左腕で這いずりながら、男から逃げようとするメアリー。


 彼はあえてそれを見逃し、嘲笑とともに観察する。


 やがてメアリーは片腕でどうにか立ち上がり、よろよろと走り出した。


 枯れた森を抜けて、向かった先にあるものは――死神の谷だ。


 広く深い崖谷がいこくを前に、メアリーは立ち止まる。




「……あ」




 決して立ち往生したわけではなく、彼女はそこで、あるものを見つけたからだ。


 崖の手前に横たえられた、女性の体。




「嘘、だ……」




 腕を一本喪失し、腹部は歪み、口と鼻から血を流した――愛おしい人の死体。




「約束、したよね? ねえ、お姉様あぁぁぁぁああっ!」




 メアリーはボロボロと涙をこぼし、死臭漂う姉の体にすがりついた。


 その肌はすでに冷たく、いつものように優しく頭を撫でてくれることもない。




「んー……感動的だあぁ……愛し合う姉妹の感動の再会に、俺は涙を禁じ得ないッ! 素晴らしい! 我ながら最高にドラマティックな演出じゃないかァ!」




 その様を見て、歓喜する男。


 髪をかき乱し、くねくねと体をよじりながら、狂乱して嗤う。


 そんな男を前にしても、メアリーは反撃の手段を持たない。




(やっぱり私は、空っぽなんだ。大好きなお姉様が死んでも、何もできない。外道が、仇が目の前にいるのに、何もっ……! ただ、死体にすがりつくことしかできない……ッ!)




 歯を食いしばったところで、秘めたる力が覚醒することもない。


 現実はただただ無情で、メアリーに無力さを痛感させるばかり。




「だけど俺は、より高みを目指す。この美しい世界でより輝くために! 高みへ! 絶頂へ! よりハイオクリティなエンタァァァァァテインメントで、俺をもっと高いステージまで導いてくれよ、お嬢ちゃん!」




 メアリーたちを指差す男。


 すると死んだはずのフランシスがむくっと起き上がり、無表情にメアリーを見つめた。




「お姉様……っ!」




 一瞬だけ、メアリーの表情に希望が宿る。


 だがすぐに顔を見て理解する。


 これはただの、死体なのだと。


 その理解を裏付けるように、フランシスはメアリーを残った腕で抱きしめ、拘束した。


 メアリーは身をよじって逃げようとしたが、その力は肺が潰れそうなほど強い。




「う、ぐ……おね……さま……やめっ、やめて……おねが……いっ……!」




 当然、そんな言葉が死者に届くはずもなく。


 フランシスの死体は、メアリーを抱きしめたまま崖の縁に立つと、




「このショーは、アルカナ『隠者ハーミット』の所有者マグラートの演出でお送りいたしました。それではまた、来世で」




 その男――マグラートの言葉と同時に、飛び降りた。


 全身を浮遊感が包み、声もなく、メアリーは落ちていく。




(ああ……私、結局、死ぬんだ)




 数十メートルのフリーフォール。


 高確率で即死。


 よしんば生存できたとしても、脱出の可能性はゼロ。


 もう諦めるしかない。


 だからメアリーは、せめて少しでもマシな死に様を――と、姉の体をそっと抱き返した。




「お姉様……大好きです」




 グチャッ。


 腐敗した死体の上に、叩きつけられる姉妹の体。


 全身を激しく揺らす衝撃とともに、メアリーは意識を失った。



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