003 アルカイックスマイル
「お嬢様、お怪我はありませんか。もし負傷されていましたら、足元にある救急箱をお使いください」
「……ありがとう」
運転しているのは、メアリーもよく知っている中年の使用人だ。
変装なのか、いつもの燕尾服ではなく、ラフな洋服を纏っている。
「フランシス様なら平気ですよ、あの方はプルシェリマ家でも最強の魔術師と呼ばれています。アルカナ使いでも出てこない限り、負けることはありません」
「アルカナ使い……」
それは
魔術を極めた者の中で、神に選ばれた人間だけが得ることのできる力――と言われているが、具体的にどうしたら手に入るものなのか、まだ明らかにはなっていない。
はっきりしていることは、アルカナは二十種類存在するということぐらいだ。
間違いなく最強の魔術師――いくらフランシスでも、分が悪い。
「世界に二十人しかいないんです。王国軍に所属している数名も動いている様子はない。スラヴァー家に至っては公式発表されている分にはゼロ。大丈夫ですよ」
「そう、ですね。私もそう思います」
メアリーにはそうとしか言えなかった。
だが、胸をざわつかせる嫌な予感は収まらない。
気持ちを落ち着けようと、窓から外の景色を見るメアリー。
高いビルや貴族の屋敷が並ぶ地域を過ぎると、並ぶ住宅は突如としてみすぼらしくなる。
勝者と敗者が、一目瞭然に分けられた光景――それはスラヴァー領のみならず、オルヴィス王国ではそう珍しい光景ではなかった。
メアリーは出来損ないだ。
しかし王女として生まれた時点で間違いなく勝ち組で、きっとこの光景を見て胸を痛める権利など無いのだろう――と目を伏せる。
考え込んでいるうちに“平民街”を抜け、両側を森に囲まれた道に出た。
街灯の数も減り、周囲は一気に暗闇に包まれる。
「どこに向かっているんですか?」
「国外です」
「国外に!? そんな簡単に出られるものなんですか?」
「フランシス様が手回しをしてくださっています」
一体、フランシスはいつからこうなることを予見していたというのか。
(お姉様、わかっていたのなら、なぜ教えてくれなかったんです……? お父様たちと対立していたから?)
当事者だというのに、メアリーにはわからないことがあまりに多すぎる。
だが、今はとにかく逃げることに集中しなければ、命すら危うい。
フランシスが説明しなかったのも、あるいは、メアリーに余計なことを考えないようにするためなのかもしれない。
◇◇◇
車で移動すること三時間。
延々と、市街からは外れた道を進み続けている。
時にはまともに舗装されていない道路を通ることもあり、お世辞にも快適な旅路とは言えなかった。
メアリーは用意してあった硬めのパンをかじり、水を飲みながら、外の景色を眺める。
どんよりと曇った空。
乾いた大地。
枯れた木が立ち並ぶ、不気味な光景――その向こうには、地面から煙が立ち上っていた。
「死神の谷ですね」
使用人が言った。
「ああ、あれが……以前は戦争で出た死体を、崖に投げ捨てていたと聞いています」
「今は、墓も作れない貧民の死体を処理しているそうですよ」
「……そうだったんですか」
「地底から噴き出すガスのおかげで、積み上がった死体は少しずつ灰になっていくんだとか。煙はそのせいです」
「大地が死んでいるのはガスのせいなのに……まるで、死者たちの怨念が、地面に染み付いているようにも見えますね」
「だから死神の谷だなんて呼ばれ方をしてるんでしょう。ここに住む人間にとっては、一種の願掛けですよ」
「死神が、死者の魂をあの世に連れてってくれますように、ということですか」
じっと見ていると、メアリーは谷に引き込まれるような気がした。
怖くなって視線を前に向ける。
ガタガタだが、一応は舗装された道路が、緩やかなカーブを描きながら続いている。
ここを抜ければ、国境まではあと少しだ。
(無事にこの国を脱出できたら、お姉様と合流して、それから……どうしたらいいんでしょう。王女が二人で、政治に巻き込まれずに穏やかに生きることなど、可能なのでしょうか)
未来は見えない。不安は尽きない。
それでも平静を保てているのは、フランシスの存在があるからだ。
必ず彼女はメアリーを迎えに来る、そう信じていたから。
信じていないと――それだけで、心はバランスを崩してしまう。
「ところで、他の使用人たちはどうしているのでしょう。お姉様に命令を受けたのは貴方だけですか?」
「……」
「あのっ」
そのとき、ブォンとエンジンが鳴って、車は急加速した。
メアリーは「きゃあぁっ!」と叫びながら、前の座席にしがみつく。
なおも使用人はアクセルを強く踏み込み、車体は加速を続ける。
「急にどうしたんですかっ!? もしかして追っ手が――」
問いかけながら、前方の座席を覗き込むメアリー。
するとタイヤが地面の石を踏みつけて、ガタンと小さく跳ねた。
その拍子に使用人の首が
見開かれた瞳が、無感情にメアリーを見つめる。
「あ……あ、あ……いやぁぁぁぁあああああああっ!!」
彼女は力いっぱい叫び、背もたれに体を押し付けるように後ずさった。
もちろんそれ以上は逃げられないが、少しでもその頭部から距離を取りたかったのだろう。
切断面は鋭く、少し遅れて血がにじみ、
力を失った使用人の体は、アクセルを踏み込んだまま動かない。
「な、何なの……っ! どうして、こんなことに……助けてぇっ、お姉様あぁっ!」
メアリーの嘆きは誰にも届かず。
無情にも加速を続ける車は、ついに道路をはみ出し――正面から木の幹に衝突した。
やせ細った木は、一本だけでは車を止められない。
「あうっ! ひっ、ぐうぅっ! ああっ、やだぁぁああっ!」
バンパーはひしゃげ、フロントガラスはひび割れながらも、タイヤは回り続ける。
衝突するたびに車内は激しく揺れ、ベルトのおかげで飛ばされずには済んだものの、メアリーは色んな場所に体を打ち付け、苦悶の声を漏らす。
そして、木を五本ほどなぎ倒したところでようやく止まり――シュウウゥ、とボンネットから煙があがった。
「は……はぁ……はひ……っ、火、火が……っ!」
車体が火を噴くまで、さほど時間はかからなかった。
メアリーは目に涙を浮かべ、落ち着きのない手付きで、何度か失敗しながらもベルトを外す。
そして這い出すように、ドアから脱出し、さらに駆け足で車から離れる。
火はみるみるうちに全体に広がっていく。
魔導車のエンジンは非常にデリケートな代物だ、炎の熱がそこまで達すれば――ドオォンッ! と激しく爆発する。
「きゃぁぁぁああっ! あうっ、う、くうぅ……っ!」
爆風に背中から押され、地面に飛び込むように転ぶメアリー。
膝を擦りむきはしたが、幸いなことに、飛び散った破片は彼女に直撃はしなかった。
メアリーはしばし四つん這いの体勢で地面を見つめたまま、呼吸を整える。
肩を上下させながら、「はぁ……はぁ……ううぅ……っ」と、嗚咽を漏らし、汗と涙を地面に落とす。
この後のことはおろか、現在のことすらまともに考えられないほど、頭は真っ白だった。
それでも立ち上がり、前を向く。
「よお」
男が立っていた。
見上げるほど背が高く、細身だが筋肉は付いていて、髪はショッキングなピンク色。
顔にはタトゥーと無数のピアス、そして何より――完全に
メアリーは直感的に理解した。
「あなたが、やったんですか?」
男はニタァ、と口角を釣り上げ答えた。
「そうだよお嬢ちゃん。俺がやったんだ」
「一体どうして!」
「この美しい世界のため、って言いたいトコだけど、実際は依頼されたからサ。俺は殺し屋。そして――」
顔を歪め、頬に皺を寄せながら彼は言う。
「アルカナ使いだ」
そのとき、メアリーは周囲の景色が、ぐにゃりと歪んだような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます