世の中の需要はかっこいいかダサいかだけで決まってきた

高いコップを買った。


高いと言っても800円くらいの品物であるが、私にとっては高い。


コップなんて100均のものでも機能的には何ら変わりはない。人に見せるものでも使ってもらうものでもない。自分しか使わないコップに高い金を支払う意味はあるだろうか。


お酒用には、1,000円程度のコップを使用している。日々の中でもっとも楽しい晩酌の時間を、限りなく気持ちの良いものにするため、これは随分選んだ。


今回買ったコップは日常用である。


一日の中で一番よく使うコップ。どうせいつか割ってしまうだろう。そんなコップに800円も出すなんて。私にとってはもうセレブだ。一人叶姉妹だ。


結果、私の生活は変わった。このコップで水を飲むのが毎日楽しい。氷を入れたときの音がいい。デザインがいいので、アイコスコーヒーでも牛乳でもなんでも合う。グラスが薄口なのもいい。


ではなぜ、オシャレなコップがいいと思えるのか。本来コップなんて水が飲めればなんでもいいはずだ。


どうやら私たちの体内には、オシャレなものを追い求めるDNAが刷り込まれているようである。


江戸時代、贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が出たとき、町人たちは羽織の裏地に凝った。


法律で禁止されているから表地は地味を装うが、裏地に贅を尽くす。それが江戸っ子の粋文化に繋がっていくわけだが、その頃から人はオシャレを求めていたということが分かる。


民族衣装にしても伝統文化も、結局はオシャレ。本来は、別の信仰的な意味があったものでも、そこから必ずオシャレでアップデートされてきた。


未だiPhoneなどapple製品が根強い人気なのもそうだ。互換性を考えても、Windowsの方が機能的には優れているのに、appleの企業価値は盤石なまま。


90年代CDが爆発的に売れたのもそうだ。あの時代は、CDをたくさん持っていることがオシャレとされていたからこそ、人は1曲に1,000円、10曲に3,000円を出して買った。今のサブスク感覚で考えると相当高い。


時代により国により、その概念は様々だが、どういうわけか我々のDNAにはこういったオシャレ本能が刷り込まれている。


合理性や機能性を追求してこそ需要が生まれそうなものだが、「なんかオシャレ」という、実に非科学的で感覚的なものが、それらを一蹴してしまうことは現代でも多々起こる。


つまりそれは、例え便利で有用であっても、「なんかダサい」ものは好まれないということを意味する。アプリのアイコンデザインもそうだし、SNSアカウントやYouTubeチャンネルもそう。


「かわいいは正義」と人は言う。


どうやらそれは間違いなさそうである。

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