題:21
目の前で消えたクチナシさんとイイ。突然駆け出したイイは、きっと僕が気付けなかった何かに気付いて生物室に飛び込んだ。僕が先に気付けていれば二人とはぐれることはなかったはずだ。
暫くは罪悪感で動けなかった僕だが、イイが託してくれた鍵を握りしめ、本館一階の視聴覚室へと向かった。二人が無事なら必ずここに来る。願わくば誰かと合流できるように祈っていたが、結局誰にも会えず、ボロボロの扉に鍵を差し込んでいた。抵抗する鍵穴に根元まで鍵を差し、捻ったそのタイミングで、僕の耳は初めて隣の保健室から漏れる猫のような嬌声を捉えた。
「誰だ?」
白い扉の隙間から聞こえる音にそっと近づいていく。この声は確か不良の少女だったはずだが……。僅かな隙間から部屋の中を覗いた僕は息を飲んだ。いくらなんでも本能に従順すぎるだろう……。
「もしかして興味あんの?」
肩を、掴まれた。背後に居るのは三人組の一人。僕が振り返ると彼はいやらしい笑みを浮かべて僕の腕を引っ張った。おそらく彼らは幾度となくこの方法で他人を陥れてきたんだろうが、僕にそれは通用しない。
「邪魔したね」
黒く日焼けした手を振り払って逃げるようにその場を去ろうとする。用があるのは視聴覚室であって、彼らじゃない。視聴覚の扉に掛けた左手を彼が握った。
「この中よりも俺たちの所の方が楽しいぜ?ほら、こっち来いよ」
獅子と兎の体格差を埋められるような技術なんて持ってない僕の口は一回り大きな手に覆われた。咄嗟に扉を掴んだ右手も引きはがされ、保健室へと連れられていく。猛烈な嫌悪感と焦燥に両足は自由を求めて暴れたが、僕自身が捕らえられていてはどうしようもない。
「俺はさ、君みたいな冷たい子の方が好みなんだよ。喘がせると支配してる感がしててさ。初めてなら優しくするから」
酸欠で意識がドロドロに混濁してくる。彼にとって僕は狩りの獲物だ。捕食者が獲物をそう簡単に離すはずがない。されるがままに辱められるなら舌を噛み千切って死んだ方がマシだ。意識が落ちる前に舌を歯で挟んだその時、ようやく
「おい、エイルを離せ。ただでさえ気分が悪いんだ、そいつに死なれると困る」
涙が頬を伝っていた。慌てた男がイイに気を退けたわずかな隙を突いて僕は彼の体から抜け、イイの傍へ逃げ出す。蛇のように睨みつけられた男はイイに向かって育ち相応の歩きで近寄って行った。
「なんだてめぇ。正義の味方気取りか?そんなひょろひょろの身体でよぉ!」
男が振った拳をイイは掌で撫でるように軽く受け流す。衝撃を受け止める先の無かった拳は壁にぶつかり、男は悲鳴を上げた。意外だ、イイが武術を使えるなんて。しかし、掌を主体として使う武術なんて初めて見た。中国拳法では掌底で相手に衝撃を与えるが、イイのそれは受け流しが目的のようだった。拳を難なく躱され続けた男はいよいよ鬱憤が溜まってきたようで、暴れながら叫び始める。
「鬱陶しいんだよっ!」
闇雲に振った拳なんて当たるはずがない。このまま男が疲れ果てて倒れることになるだろう。だが、僕の眼は土色の警告色を捉え、視聴覚室の扉を開けさせた。
「イイ、こっちだ!」
それは、言うなれば熊だった。四足歩行の大型ゴーレムが、格闘中の二人目掛けて一心不乱に突っ込んで来ている。僕はイイのコートを掴んで視聴覚室の中に飛び込んだ。僕がイイを止めたことによってようやく一発当てることができた男は汚い笑顔のまま土塊に押しつぶされて消える。次いで男女の悲鳴が響き、静かになった。危機は去ったらしい。
「……イイ。その……助けてくれてありがとう」
感謝の気持ちは面と向かって伝えるべきなんだろうが、僕はどうにも気恥ずかしくて彼の顔を見ることが出来なかった。それとともに、クチナシさんのことを聞こうとも思えなかった。
「気が向いただけだ。僕だって馬鹿は嫌いだ」
僕はイイの一息吐いて、暗闇に慣れた両の眼はここが彼と彼女のために創られた場所だということを僕に理解させた。手を繋いだ二人は安らかな顔で死んでいる。男の方は少し前に流行った服装で、女の方は巫女のようだ。
「……イイ?」
顔を横に向けると、イイは白い蜘蛛の糸で祝福された二人を呆然と見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます