第72話 それぞれの事情②

 宇佐美は頭を忙しく働かせていた。

 目の前の上司、九我くが正語しょうごは苦悩に顔を歪ませている。この状況で、どんな言葉をかけるのが正解なのか……。


 九我は家柄とペーパーテストの成績で若くして警視となった。現場経験は少なく、キャリアに傷をつけないよう常に周囲から配慮されてきた男だ。

 しかし、出自を鼻にかけることもなく、寡黙に淡々と仕事をこなす姿勢には好感が持てる。とはいえ、どこか掴みどころがない。


(慣れないことをして、疲れ果てたのかな……?)


 この一週間、九我が痩せていくのを宇佐美は感じていた。食事を摂っていないという噂も立っている。

 美しいとすら言える顔立ちは、退廃的な雰囲気が加わり、一層の凄みを帯びていた。

 九我を見ながら宇佐美は不思議がった。


(どうしてこの人、女性関係の話が全くないんだろう?)


 九我は水の入ったグラスを手にしたまま動かない。

 心霊話を期待したが、九我はこれ以上話を続ける気はなさそうだ。

 宇佐美が次の話題を模索していると、石黒が呑気な調子で口を開いた。


「秀一君に被害者の魂を呼び出してもらえば、事件はすぐ解決だったんじゃないですかね」


 その言葉に九我の顔色がさらに暗くなるのを、宇佐美は見逃さなかった。


岡本涼音おかもとすずねを責める気にはなれませんが」と石黒は続けた。「そもそも全て、あの子の恐怖症が招いたんですよね——鷲宮一輝わしみやかずきの遺体が見つかった温室に行ってみましたけど、ちょっと蹴れば窓から出られそうじゃないですか。中にパイプ椅子もありましたし。本当に事故死なんですか?」


「俺もそう思う」と九我が低く呟いた。「鍵をかけたのは佐伯高太郎だが、一輝は自分の意志で外に出なかったんだと思う——今となっては推測でしかないが」


 九我は顔を上げ、宇佐美を見つめる。「一輝は偽物だと言われていたんだよな」


 宇佐美はうなづいた。この話題には乗ってくるのかと九我の次の言葉を待つ。


「その通りみたいだ……あいつには何の能力もないらしい……」


「自分に霊能力がないことを苦にして、一輝は自ら命を絶ったんですか?」


 石黒の問いに、九我は沈痛な表情で頭を抱えた。


「……俺はまだ腹落ちできない……霊が取り憑くだの、霊媒だの……」


(おや、また落ち込み始めたぞ)




 宇佐美は冴島の供述に立ち会った時のことを思い返した。

 彼の証言から浮かび上がったのは、涼音の繊細さと、その背後にある複雑な人間関係だった。


 真理子の依頼でみずほ町に戻った冴島だったが、弟のコータと親しくしている岡本涼音の様子がどうしても気になった。


『あの子は修学旅行の代金を父親に言えなかったんです。中学生の女の子なら欲しいものがいっぱいあるはずなのに、親に物をねだったことがないみたいで。生活費をやりくりして自分の小遣いを捻出していました』


 学校で必要なものすら親に頼めない涼音を見かねた冴島は、彼女にアルバイトを提案した。


『親に相談するよう説得した方が良かったのかもしれません。でも、僕は岡本とは関わりたくないんです。子供の頃、彼から酷いイジメを受けていましたから。殴られても大人たちは見て見ぬふり。僕なんか、嫌われ者の佐伯の家に転がり込んだ女の連れ子ですからね。どうでもいい存在だと思われていて、ムカついたらサンドバッグ代わりにしてもいいという扱いでした——でも、去年みずほに戻った時には、誰も僕のことを覚えていませんでしたよ』


 忘れずにいたのは自分だけだったと、冴島は苦々しく笑った。


 冴島が紹介したバイトは、旧道沿いのラブホテル『ミルキーウエイ』の受付だった。

 冴島は高校生の頃に働いていたカフェが経営難に陥っているのを知り、そこを買い取ってホテルを開業。かつての雇い主をフロント業務に雇い入れていた。


『中学生の女の子には向かない仕事でしょうが、ただでお金を渡しても本人のためにならないし、親に知られたくないと言うから仕方ありません——涼音さんは楽しそうに働いていましたよ。バイト代で猫の絵が描かれた財布を買ったって、嬉しそうに見せてくれました』


 だが、その秘密のアルバイトは長く続かなかった。

 ある大雨の日、涼音を送ろうと車に乗せてホテルから出るところを鷲宮一輝に目撃されてしまう。問い詰められた冴島は全てを話し、一輝は涼音の父親に相談すると言い出した。


『そこから先は一輝に任せました。何度も言いますが、僕は岡本と関わりたくないし、顔も見たくないんです』


 涼音はその後、一輝から厳しく叱責された。

 父親に叱ってもらうと言われ、涼音は「自分の口から話すから黙っていてほしい」と懇願する。


 数日後、一輝の最後の日が訪れる。

 その朝、一輝は涼音の父親に「娘のことをどうするのか」と問いただしたが、話し合いが行われた形跡はなかった。娘をもっと気にかけるよう余計な口を挟んだ結果、一輝は涼音の父親に殴られてしまった。


『可哀想なくらい愚かな奴ですよ。一輝は自分が影響力を持ち、町民から敬意を払われていると信じ込んでいました。町の仲裁が自分の責務だと思っていたんでしょう——』


 父親が一輝を殴ったと聞かされた涼音は、ついに父親と向き合う決心をする。だが、すぐに行動に移せず、一輝のいる温室へ向かった。


『正直、理解に苦しみます。とっとと父親の所に行けばいいのに、どうして温室に行ったのか。親と向き合うのを先延ばしにしたかったのか、それとも一輝が相当プレッシャーをかけたのかもしれません——』


 涼音は温室に近づくが、周囲にいた野良猫のせいで進めなかった。


『涼音さんは猫アレルギーがあるんです。以前病院に行った時、治療費が高額だったことで父親に嫌な顔をされ、それ以来、猫に触れないよう気をつけていました』


 温室に近づけない涼音は、コータに一輝を引き留めておくよう頼んだ。

 コータは温室に入り、一輝に「涼音と父親の話し合いが終わるまでここにいてほしい」と頼むが、一輝は椅子に座ったまま黙り込んでいたという。


『弟が言うには、一輝は全然話を聞いてくれなかったそうです。だから弟は鍵をかけて涼音を探しに行きました——』


 しかし、涼音はどこにもいない。町中を探し回った末、コータが温室に戻ると、一輝が倒れていた。驚いたコータはすぐに冴島のもとへ駆けつけた。


『僕はコータを本家に向かわせ、真理子さんに知らせるよう頼みました。それから温室へ向かい、倒れている一輝を発見したんです。すぐに野々花の店に行って救急車を呼びました——ええ、スマホは役に立ちません。あの場所は全く電波が届かないんですよ——その後、コータから涼音さんのことを聞き、慌てて彼女を探しました。川辺で泣いていましたよ。「お父さんを探しているけど、どこにもいない」と……まるで小さな子供みたいに……今回と同じです——』


 冴島は言葉を一旦区切り、ため息をついた。


『——野々花とは、この日から付き合うようになりました……野々花がどうして、真理子さんにあんな酷いことをしたのか……二人の間に何があったのか……全く、見当もつきません……』


 彼の声には疲労と困惑が滲んでいた。


 

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