第9話 正語

 九我正語くがしょうごが車で東京・八雲の自宅に着いたのは夜十時を過ぎていた。


 以前、この家の前には道路を隔てて高いコンクリートの壁が続いていた。

 その向こうには都立大学とその付属高校があったが、現在は高校が閉校、大学も移転している。

 跡地には多目的施設や図書館が建ち、広大な公園へと変わった。


 電動シャッターをくぐり、車を降りた正語は七月の月を見上げ、大きく伸びをした。

 満月だった。夏の夜風が心地よい。


 二十六歳。元警察庁長官の孫という肩書きを持ち、現在は庁内のエリートコースを順調に進み、警視に昇進したばかり。

『この世をば』といった心境か。


 上着を肩に担ぎ、鼻歌交じりで玄関の扉を開けると、従兄弟の秀一しゅういちがパジャマ姿で立っていた。


「おかえり」


 秀一は手を差し出し、正語から上着を受け取る。

 指はすらりと長く、華奢な手だ。


「さっき、父さんからまた電話がきた」


 完璧なアーモンド形をした青灰色の瞳が正語を真っ直ぐに見上げる。

 だが、その瞳にはどこか無機質な印象があり、ガラス玉のようだった。


「兄さんのスマホが出てきたんだ」

「……そうか、よかったな」


 くし物が見つかったのだろう、と正語は単純にそう思った。

 しかし、秀一は小さく首を傾げ、何か考え込むような表情を見せる。


「なんか、相談したいことがあるみたい」


 白い首筋がふと目に入り、正語の全身にざわつくような感覚が広がる。

 慌てて目をらし、大股で家の中に入った。


「光子さんに言ったら、父さんにすぐ電話してくれた」


 秀一は正語の上着を抱えたまま、後ろをついてくる。


「正語にも話を聞いてもらうって、光子さん、言ってた」

「はあ? 遺品が出てきたからなんだってんだ?」


 つい口調が荒くなり、正語は気になって振り返った。

 秀一はペコリと頭を下げている。


「迷惑かけて、ごめんなさい」


 秀一はそのまま項垂れ、階段を上がっていく。

 細い後ろ姿に、正語は何か声をかけようかと迷ったが、止めた。ただ見送った。


 母親を亡くした小学生の秀一がこの家に来たのは、正語が高校生の時だった。

 その日以来、正語は自分の感情を持て余してきた。


 自分は小児性愛者ペドなのか、とゾッとした時期もある。

 だが、何にしても。


(こんなことでつまずいてたまるか!)


 もし自分が夫差ふさなら、西施せいしを献上されても退け、首をはねるだろう。

 夢中になりすぎるとわかっている相手には、距離を置く方が賢明だ。


 

 

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