第8話 由美子

 ――運気が上がるわよ。


 風水に詳しいパート仲間からそう聞かされて以来、由美子ゆみこはトイレ掃除を欠かさなかった。

 彼女から教わり、トイレグッズはすべてピンクで統一。

 中学生の息子の部屋の窓には赤いカーテンをつけた。


 息子には嫌がられたが、

「東側に赤い物を置けば幸運が舞い込むのよ」と押し切った。


 由美子は元々、迷信深い性格ではなかった。

 だが、去年の自分の過ち、そして奇妙な家に関わったことがきっかけで、見えないものにすがらずにはいられなくなっていた。


(どうか賢人けんとを立派に成人させられる力を、私にお与えください)


 由美子はそう祈りながらトイレを磨く。

 幼子を連れて夫の元を出てから、息子の成長だけが由美子の支えだった。


 夏の夕刻、開け放した窓から心地よい風が吹き込んでいた。

 由美子の住まいは都営アパートの四階。風の通りが良く、大きな公園や学校も近い。

 不便なエレベーターなしの生活も、足腰のトレーニングと思えば気にならなかった。


 洗濯物をたたみながら、西向きのベランダに咲く黄色のマリーゴールドを眺める。

 何事もなく過ぎていく今日という一日に、由美子は感謝した。


 たたみ終えた洗濯物を手に立ち上がったとき、食卓に置いていたスマートフォンが鳴った。


(……賢人、かしら)


 嫌な胸騒ぎがした。

 そろそろ息子が部活から帰る時間だが、何かあったのではないか。

 由美子は急いでスマホへと駆け寄った。


『もしもし、由美子さん?』


 聞き覚えのない男の声だった。


『——僕、智和ともかずです。一輝かずきの父親です』


 別れた夫の名を聞いた瞬間、由美子の体が凍りついた。


『——一輝のスマホが出てきたんだ。あっ、またなくなったんだけど、スマホのカバーは残ってるし、欲しかったのはカバーだから、いいんだけど……』


 由美子は必死で平静を保とうとする。


『親戚の警察の人に相談したら、一輝のパソコンを調べればスマホに入っていたデータがわかるかもしれないって言うから、見てもらったんだ。それで、由美子さんの携帯番号がわかったんだよ』


 声の震えを隠しながら問いかけた。


「……なんの、用ですか……」


『——連絡が取れなくて心配してたんだよ。賢人は元気? 秀一もすごく会いたがってるよ。気まずいかもしれないけど、今度ゆっくり会えないかな』


 由美子は怯えた。

 あの人のスマホが見つかった!

 義父は警察に相談した!


『——もしもし、由美子さん? 聞いてる? この辺も電波が悪いのかな』


 立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。


(いよいよ、自分が裁かれるときが来たのだ)


 賢人はどうなるのか。

 誰に託せばいいのか。

 それよりも、賢人が真実を知ったらどうなるのか——。


(父親を死なせたのは、母親の自分だと知ったら……)


 由美子の頭の中は息子のことでいっぱいだった。

 罪の意識より、息子の未来が何よりも重くのしかかる。


 どんなことをしてでも、賢人を守らなければならない。

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