第42話 下松での思い出

*5年生のプールの話

 昨年は小指を骨折したことで参加できなかったぼくも、この年にはプールに入ることができるようになっていた。だいたいは普通の水泳の授業なのだが、この学校でやった面白いものとしては『洗濯機』と『着衣水泳』だ。

 『洗濯機』は関西風の発音でせんたっきと言っており、まず生徒たちはプールのふちに掴まって左側へと移動して行き、全員で動くので加速がついてプールに巨大な渦ができる。これをみんなんでやるのが凄く楽しくて、2クラス合同でやる大型授業の一つの楽しみになっていた。


 そしてもうひとつの『着衣水泳』だが、これは最後の授業の一回前(雨が降ったら中止になるため最終日は予備日)にみんなでそれ用の服を持って行って服を着てプールに入るというものだった。

主に溺れそうになった時は無理に泳がず、体に力を入れないようにすれば自然と浮くから、その間に服を脱ぎ棄てなさいという内容の授業で、子供が海や川で溺れないようにするためのものだった。

幼稚園年長から水泳をやっているぼくにとって、溺れる心配はないと言えるようなものだったが、それでも服が重くて泳ぎにくくなるのは貴重な経験だった。



*将棋を習った話 

 小学校低学年生の頃まではわりと簡単な将棋しか嗜んでおらず、駒を一列に並べて1ターンに一度だけ前か横に動かせるという『はさみ将棋』や、将棋をしまう箱に入れて盤の上にひっくり返し、それを音が鳴らないように引き抜くという『つみ将棋』などで遊んでいた。

夏になり下松に帰った時におじいちゃんにせがんで勝負してもらっていたのだが、10回ほど連続で負けてしまい、そのことでおじいちゃんに文句を言ってしまったのだが、「勝負の世界は厳しいんよ」と言われ、珍しく譲ってもらえなかった。


だが、これは今でも間違ってなかったと思えることで、おじいちゃんからの初めての『男としての助言』であったと今になって思う。

また、おじいちゃんには面白い口癖があったりもして「お主やるなあ」と言って褒めてくれたり、ご飯を食べた後に「美味かった、うしまけた(馬勝った、牛負けた)」というギャグを披露してくれたりもしていた。ちょっと天然な発言もあったりして、


「けんちゃんなら片目をつむってても勝てるよ」

「それじゃハンデにならないよ」

「そうね、おじいちゃん気付かんかったよ」

「ふふっ、おじいちゃんはちょっとドジなんだね」

 などと言ったりもしていた。


高学年生になってからはそれでは少し物足りないということで、父から教えてもらった『本式の将棋』で遊んでいた。だが、これも歴が長いおじいちゃんにそうやすやすと勝てるはずもなく、挑んでは負けてを繰り返していた。

 ただ、将棋をやっているうちに、どうやら『orになるように』置くといいということが分かってきた。これは例えば桂馬ならYの字の尻から頂点の二か所へ飛べるという動きなのだが、その二点両方に銀と香車があったりすると、どちらか一方しか動かせないため必ず一つは駒を取ることができるというものである。


 これは、はさみ将棋などでも応用でき、結局はおじいちゃんに勝つことはできなかったのだが、ここで修業したことで将棋が強くなり他所で将棋をやる時には始めたばかりの人には大抵の場合は負けないという所までは強くなることができた。



*下松での思い出の話

おじいちゃんとおばあちゃんの家は二階建てで、1階にはみんなでご飯を食べる台所、おじいちゃんおばあちゃんが寝ていた畳の部屋、おじいちゃんがタバコを吸っていた応接間、なぜだか怖い『三面鏡』と呼ばれる状態の右、左、前に鏡がある洗面所と風呂、和式の上に洋式を増設したトイレがあった。


裏庭にはナスやキュウリ、トマトやミニトマト、ミカンなどが植えられており、収穫できたら、調理してもらってみんなで食べていた。この庭にはホオズキが植えられていて、ハチドリ、ムクドリなど可愛らしい小鳥たちが遊びに来ていた。


また、応接間には、昔夜市でつかまえた『あの時の金魚』があんなに小さかったのに尾ひれが大きくなり、まるでポケモンの『アズマオウ』のような風貌になって、金魚鉢一杯に悠然と泳いでいたりもした。


2階にはおもちゃがいっぱいあったテレビの部屋、ぼくら家族が泊った時の寝室、熊が鮭をくわえたこげ茶色の置物がある余りの部屋、母が勉強していて、ぼくか妹が夏休みの宿題をやっていた勉強部屋があった。1階と2階を結ぶ階段の下に、ぼくの愛車だった『子供用のペダルをキコキコ漕ぐ車』があり、小学校高学年になって体が大きくなって乗れなくなるまでそれで遊んでいた。


夏休みやお正月、春休みに下松に帰った時にはみんなで集まって食事をするのが慣例になっていて、食卓にはおじいちゃんが『さばいてくれた魚』や、ぼくが当時大好きだった『骨付きのフライドチキン』、おばあちゃんが得意だった『カレーライス』、母が作っていた『巻き寿司』、おばさんの得意料理の『チーズケーキ』がよく並んでいた。


そして、ご飯を食べ終わると、ぼくら兄妹がお待ちかねの『トランプ』をして遊んでいた。『ババ抜き』や『七並べ』、『51』というポーカーのようなルール、『ラストワン』というウノのようなルールなど、親戚があつまると決まってトランプをやっていた。


おじいちゃんとおばあちゃんは昔の人なので、じゃんけんをやる時に、親指と人差し指を伸ばす、『ピストルチョキ』を出していたのもよく覚えている。ぼくはスペードしか集めないので、周りの大人たちはみんな妨害しようと思えばできていたのだが、誰もスペードは集めようとしなかった。今思えば、みんな本当に優しかった。



*東京のおじさんの話

母は男女女の3人兄弟の末っ子で、東京のおじさんとは11コ歳が離れていた。これは恐らくおじいちゃんが船乗りだったことが関係していて、おじさんおばさんが生れてから仕事が忙しくなり、母が生まれる頃に一段落したと思われる。


東京のおじさんは大学に通い始めてからずっと東京に住んでおり、そのことで『東京のおじさん』と呼ばれていた。単におじさんとだけ言ってしまうと、親戚に4人いるおじさんのうち誰なのか分からなくなってしまうため、『どこのおじさんか』をハッキリさせる意味合いがあってのことだとも思う。


麻雀が好きで、サラリーマンを定年退職してからは雀荘を開いて運営していたくらいだった。ある時、ぼくが夜市で貰った、『車3台が変形して合体するロボット』が思ったより複雑で組み立てられないでいると、ぼくが出掛けている間に組み立てくれていたことがあった。帰って来てロボットが完成しているのを見て凄いと思って興奮し、夢中でおじさんに組み立て方を習ったのをよく覚えている。


田舎に帰るといつもおじいちゃんと囲碁をやっていて、ぼくはルールがいまいち分からなかったので、それをボーっと眺めていた。ただ、いつもタバコをポイ捨てするので、クソ真面目だった幼少期のぼくは生意気にも注意したりしていた。歳が離れていて接する機会が少なかったからか、母はいつも東京のおじさんに遠慮しているように見えた。


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