第32話 Nとの思い出
*千葉との違いの話
当時から関東と関西ではテレビのチャンネルが微妙に違っていて、『TBS』は関東では6ch、関西では4ch、逆に『テレビ朝日』は関東では4ch、関西では6chになっていた。
子供だったぼくは、テレビ局の名前などは意識していなかったので、当初見たい番組が関西ではやっていないと思っていたのだが、チャンネルをコロコロ変える『ザッピング』をしている時にこのチャンネルが違っているという事実に気が付いた。
他には、ちょっとしたことなのだが、千葉で売っていて好きだった『ポテトウインナー』が関西では売っておらず、残念に感じてわざわざ友達に話したくらいだ。これはウインナーの中にポテトが入っているという商品で、その二つが合わさった味が好きだったので、母に頼んで買ってきてもらって、一緒にして食べるというようなことを代替案としてやっていた。
また、小学生の時には怪我をすることが多く、その度に絆創膏を貼ってもらっていた。ぼくは親が山口県出身だったので、「カットバン貼って」と言っていたのだが、神戸に来てからはみんなが、『バンドエイド』という呼び方をしていたので、それを知ってからはその呼び名に変えていた。
一般的に北海道では『サビオ』関東、関西、四国の東側では『バンドエイド』中部ではそのまま『絆創膏』富山だけは『キズバン』東北、中国、四国の西側では『カットバン』、九州、沖縄では『リバテープ』と呼ぶらしい。
一口に絆創膏と言ってもいろいろあるんだなと思ったのと、エスカレーターに乗るときに関東は左側に立ち、関西では右側に立つなど違いがあって当たり前という雰囲気の関東と関西が『バンドエイド』という同じ呼び名だというのは面白いなと感じた。
あとは、転校生あるあるだと思うのだが、前に居た学校と授業の進み具合や内容が異なっており、戸惑ってしまう場合だ。ぼくの場合はまず、分数の計算が分からなくなってしまい、計算ドリルとにらめっこにながら前に少しだけ習った内容を思い出しながら解いていった。幸い一番得意な科目が算数だったこともあり、二、三回授業を受けたら分かるようになっていた。
それと、社会科で習う地理の部分でも多少苦労した。ぼくは前に居た千葉のことを中心に習っていたのだが、仲山第一小学校では神戸や兵庫のことを中心に習っていたのと、みんな行ったことがある場所には詳しいので(甲子園球場に行ったことがあるので西宮を知っているなど)、話に着いて行けなくて苦労した。だが、半年もすれば慣れたもので、その差は全く気にならなくなっていた。
*Nとの思い出の話
ぼくの幼少期を語るには、この話を抜きにしては不可能だと言えるほどのことがある。神戸に引っ越してすぐに、可愛らしい訪問者が岡本家にやって来るようになった。家の入口にある石の階段の所ですれ違うのだが、ぼくは最初はあまり興味がなかったのでスルーしてしまっていた。
「ニャウ~」
と残念そうな声を出して、毎回その猫は石畳の上で寝転がり、ちょっと寂しそうにしているのであった。そのうち家1階のガラス戸の所で何かの気配がするようになり、網戸を残して開けてみるとその猫がやって来てスリスリしており、ぼくが鳴きまねをして声を掛けると
「ニャンニャ~ン」
「ニャ~ン」
と返事をしてくれるのであった。そしてよく見るとアルファベットの形でスリスリしていて、試しに呼んでみると、
「N~」
「ニャッ」
「N~」
「ニャッ」
「N~」
「ニャッ!!」
という感じで元気よく返事をしてくれ、この名前を気に入ってくれたようだった。ヒョウ柄の模様をしたメス猫なのだが、近所の子供たちからは、なぜかトラと呼ばれていて、ぼくは母に飼いたいと言ったのだが、放し飼いにしておいて他所に迷惑が掛かるといけないからという理由で許してもらえなかった。
それから1年ほどして隣の熊本さんに飼われることとなり、金魚鉢の水を飲んだり、植木鉢の中で寝たりしなくてもよくなって、たまに近所の猫に盗られることもあったが、エサももらえるようになったようであった。
そして、妊娠したら子猫が増えて大変だからということで病院で避妊手術を受け、メスだから左耳をカットされ避妊手術を施された『桜耳』になって戻って来た。とっても可愛いくて、それでいて懐いてくれていて、ぼくはこのNが大好きだった。
*ポケモンスタンプの話
転校したての時に家に居る時に退屈だろうと両親から小学校4年生という雑誌を買ってもらった。妹はタイトルが1年生の雑誌を買ってもらい、それぞれ楽しんでいた。この時にちょうどタイミング良く『ポケモンスタンプ』というものが付録として付いていて、これはポケモンが描かれたオモチャの切手で、半年間雑誌を購読すると全種類手に入るというものであった。
ぼくらが4月に買った5月号(日本では月間の場合、先取りして一ヶ月早い月の号になっていることが多い)には『スタンプ帳』が付いており、妹と一緒に張り切って集めていた。だが、9月号まで集めた時に困ったことが起こってしまった。それは4月号が3月に発売されていたため、スタンプシートが1枚足りなくなってしまったのだ。
そういう人の救済措置として1500円でシートを郵送で販売するという話が掲載されており、妹と共に母にそれを頼んでみたのだが、1500円は高すぎるということで却下されてしまった。
今にして思えば、1年生から6年生まで雑誌があり、それぞれに違うシートが振り分けられていて、違う学年のやつに自分が欲しいシートが付いていたのではないかと考えられるのだが、当時は妹とシートの中で同じキャラが2枚あるものもあったので、それを交換してあと20匹ほど足りない状態になった『スタンプ帳』をなんとも言えない気持ちで眺めていた。
この話を通じて知って頂きたいことは、どんな状況でも工夫次第で案外切り抜けられる場面は多く、打開策を見出すことを諦めないでほしいということだ。その気はないが今でもネットオークションや地方の中心街のホビーショップなどで探せば見つけることは可能だと考えられるし、欲しているものというのは案外その辺に転がっていることが多いものなのである。
*4年生のプールの話
そんな感じで夏ごろまでドッチボールを楽しんでいたのだが、例のあさぎは野球をやっていて運動神経が良く、左利きで鋭い球を投げていた。そのあさぎの投げた球が運悪く左手の小指に当たり、そこが凄く腫れて痛んできてしまった。
授業が終わって放課後になっても腫れが引かず、痛みが酷いので病院へ行くことにした。母に付き添われて小児外科へ行くとなんと『骨折』しており、添え木を付けて安静にしておくことになった。ちょうど夏だったこともあり、好きだったプールの授業にも参加できないので凄く残念に思っていた。
どういうわけかこのプールにはカメムシが多くいて、みんな臭いに悩まされたりもしていた。そんな時に、違うクラスの保田という子と話すようになった。この子もぼくと同じように関東から引っ越して来た子で、ぼくのように変わり身が早いタイプではなかったらしく『標準語』のまま話していた。
彼はあまり活動的ではなく、恰幅が良い体形でちょっと太っていて、水泳の授業は毎年毎回休んでいたようなので、同じように病気がちな子と仲良くなっていたようであった。ただ、明るくて面白く、人を悪く言わないので話しやすくて良い奴だなと思っていた。
後に彼とは5年生で同じクラスになるのだが、この時に何人か友達になったお陰で、クラス替えの後にも4年生で同じクラスだった子以外にも話せる子が少しいた。
怪我をして得意の水泳ができずにつまらない思いをしていたのだが、5年生になった時にクラスに溶け込みやすくなったので、悪いことばかりではなかったなとクラス替えの後で考えたものであった。 怪我の功名とでも言うべきことだったのだろう
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