第30話 黒魔術
「おっ、なんかやってるな」
見ると女の子が3人で輪になっており、そのうちの一人が煙草を吹かしていた。
インドネシアの煙草には『クローブ』というものが含まれており、これはコショウ、シナモン、ナツメグと共に四大香辛料と呼ばれるものである。その効果で火をつけると周囲に甘い香りが漂い、口の中がとても甘くなる。昔から喘息に効く薬として使用されており、吸うと喉が滑らかになるという。
「そうだね、あの楽器なんかもオシャレだね」
さらにもう一人は楽器を弾いており、これはアンクルンと呼ばれるものであった。竹製の打楽器であり、太鼓、ゴング、オーボエなどの管楽器もしくは竹笛の加わったガムラン(合奏)が一般的で、奏者が同時に熱狂的で滑稽な仕草で踊ることがある。
煙草を吸っていたノフィと、アンクルンを弾いていたアグスが何やら話をしている。
「来月からラマダンね。なんだか少し憂鬱だわ。このバナナで最後ね――」
「ほんと、イフタールが今から待ち遠しいわ」
インドネシアでは約88パーセントの人がムスリムであり、『ラマダン』と呼ばれる断食を終えると、『イフタール』という朝食を食べるのである。彼女らが弾いている
楽器を珍しがって昴と瑞希が近づいていくと、最年少のフェビィが話しかけてきた。
「セラマト マラム(こんばんは)」
和やかに笑う彼女らを見て、瑞希はなんだかは微笑ましい気持ちになった。
「なんかいいよね、こういう人たちって。穏やかで優しくて」
「え~俺はなんか嫌だな」
「なんで?可愛らしいじゃん」
「東南アジアってなんかダサいし、古臭いじゃん」
「そんなことないと思う。文化が違う人をそういう風に見ちゃダメだよ」
「なんだよ、俺より知らない人の味方するってのかよ」
「そういうつもりじゃないけどさ」
「だったらどういうつもりなんだよ?」
昴は不貞腐れて側にあったココナッツを蹴るフリをした。女の子たちはその動作をまじまじと見つめていた。瑞希が気を使って「セラマト ティンガル(さようなら)」と言ってその場を離れようとした。だが、二人が立ち去ろうとすると、突然アグスが楽器を弾くのを止めて、昴たちを呼び止めようとした。
「ねえ、待って。ノフィ、これって――」
「――ほんとだわ。大変、黒魔術じゃない」
「ナタリア姉さんに知らせなきゃ!!」
そう言ってフェビィは走ってどこかへ行ってしまった。
近づいてきたノフィが先ほど食べようとしていたバナナを差し出してきた。
「イツ アダラ ピサン ヤン ディセト ピサン マス。マカン」
(これ、ピサン・マスっていう魔よけのバナナなの。食べて)
「ごめんなさい、何て言っているか分からない」
ある程度は勉強した瑞希でも、ネイティブレベルの口語は難しかった。
「マカン、マカン!」
「食べろってことかな?」
昴が恐る恐る手を伸ばすと、ノフィは笑顔を作りながら首を縦に振った。差し出されたバナナの皮を剥いて食べると、意外にも特に何の変哲もないものであった。昴と瑞希は、バナナに何の意味があったのか不思議に思っていたのだが、不意に脚の方に目をやると、右脚のくるぶし辺りが大きなクギの形に膨らんできているように見えた。
暫くして知らせを受けてやってきたナタリアは、昴の脚を見るとすぐに血相を変え、屋台の人に話し掛けて何かを調達し始めた。それは『ジャムウ』と呼ばれる主に根茎、木の皮、果実といった自然素材から作られるインドネシア発祥の伝統医薬品であった。
ナタリアは綺麗に日に焼けた端正な顔をしており、長い髪を振り乱して眉間に皺を寄せながら火を起こし、フェビィがどこからか持ってきた鍋で、その材料を煮始めた。
「なんか、科学の実験みたいだな――コレ、俺のためにやってくれてんの?」
「そうなんじゃない?シヒル・ヒタムって、確か黒魔術って意味だったと思うけど」
「えっ、そうなの!?なんか怖いな」
「薬なんじゃない?とりあえず待ってみようよ」
10分ほど経って、ナタリアは煮終わった鍋にバケツで汲んだ水を加え、昴の前で拝むように手を合わせた。昴と瑞希はこれから何が行われるのか不安に感じ、固唾を飲んでその様子を眺めていた。
すると次の瞬間、ナタリアが勢いよく鍋の中身を昴にぶっかけた。
「うわっ、えっ、なに!?」
ナタリアの不意打ちに心底驚いた昴は、思わず大きな声を上げてしまった。だが、ムッとしたものの、昴の脚を確認してホッとしている彼女らに悪意がなさそうなので、文句を言うに言えない状況であった。
「もう大丈夫よ。危ないところだったけど危機は脱したみたい」
そう言うとナタリアは笑顔で昴の手を握った。
「ごめんなさいね。お詫びに明日の雨を晴れに変えておくから――」
インドネシア語で言われているため、二人には当然何のことだか分らなかったが、悪意を持って罵られているわけではないことは明らかであった。瑞希が片言でテリマ カシイ(ありがとう)と言った後、昴が作り笑顔で手を振って岐路についた。
「さっきのってインチキだったんじゃねえの?魔術なんて非科学的だろ」
「そんなことないと思う。人を疑うのは良くないことだよ」
「けど証拠なんかないだろ。とんだ災難だよ」
「善意でやってくれてる人たちに対して失礼だよ」
「そうかもしんないけどさ。何を根拠にそう言うんだよ」
「だってお金取らなかったじゃん。それは偉いことだよ」
「けど、なんか寒いし、風邪ひいたらどうしてくれんだよ。ったく」
「どうして善意に感謝できないの?」
「ありがた迷惑なんだよ、頼んでもないのに。瑞希が言えばいいだろ」
「なんで人の気持ちを考えようとしないの?分かり合おうとしないの?」
「俺は常に人のことを思って生きてるよ。相手のこと分かってるよ」
「さっき私はワインを遠慮したのに、自分だけパパイヤ食べたりしたじゃん」
「!?。なんだよソレ?それならその時に言えよ!!」
「だって言える雰囲気じゃなかったから――」
「俺が間違ってるっての?自分で勝手にそうしたんじゃん!!」
「そんなこと、言わなくたって普通は分かるよね!?ああ、もう腹立つ~」
「誰だって言われなきゃ分かんないだろ?独りよがりなんだよ、瑞希は」
「それじゃ、やっぱり人の気持ちわかってないじゃん!!」
「――」
瑞希の正論に一言も返すことができないでいた。それからバスに乗り、電車に乗り、タクシーに乗り、ホテルまで遂に無言で帰ってきてしまった。
「ごめん、俺たちもう――」
「やめてよ!!」
「瑞希――」
「なんで?なんで、いつもそうやって、勝手に決めるの?私の気持ちはどうなるの?変わってくれるの信じてるのに、待ってるのに、なんでなの!!」
「――」
「なんとか言ってよ!!私が悪いの?ねえ!?ねえ!!」
「もう嫌だ――」
「私だってそうだよ!!」
「俺たちなんでいつもこうなんだよ。お互い好きだと思ってるのに――」
「本当に?ホントに私のことが好き?」
「そうだよ。なんで分かってくれないんだよ」
恋人や夫婦などは、互いに向かい合うのではなく『同じ方向を向いて歩んで行く』ということが大切なのだが、若い二人にはどうしてもそのことが理解できなかった。
目標を持って挑んだり、共通の問題を解決したりすることが、その仲を保つためには大切なことなのである。
ロビーに戻って皆と合流してからも、終始気まずい雰囲気が漂ってしまっていた。
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