松尾芭蕉の憂鬱

海石榴

第1話 芭蕉の煩悶

 江戸深川の草庵で一人の男が夢を見ていた。

 瞼の裏に、見たこともないような大きな満月が浮かぶ。

 その昼間かと見まごうような燦たる月の光が、赫々と海をかがやかせ、老松の生えた島々を照らす。

 

 男はガバッと煎餅布団から跳ね起きた。

 その夢は奥州仙台の名勝地、松島の絶景であった。

 男は昏く素寒貧の草庵の中を見渡して嘆息した。

「松島や、嗚呼、松島や松島や」


 男の額には深い皺がある。

 明年には齢45を数える。

 人生50年、余命はもう残りわずかしかない。

 男は昨年、自分が詠んだ句を胸のうちで反芻した。

「古池や蛙飛び込む水の音」


 男は唇を歪め、自嘲した。

「ふふっ。大川や芭蕉飛び込む水の音と詠めばよかったわい」

 男の名は松尾芭蕉。

 まさに大川の隅田川に飛び込みたくなるほど赤貧であった。


 今月の収入は、句会を5回催して、束脩料、揮毫料合わせてわずか1両3分。

 毎月カツカツの暮らしで、仙台松島なぞに旅立てるわけがない。

 だが、芭蕉は死ぬ前に、一度、松島をその目で眺め、一世一代の句を詠みたかった。

「くそっ。金がない。わしは生涯、松島の月を見れぬのか」

 芭蕉は床の上で二転、三転、眠れぬままに煩悶した。


 その芭蕉が暮らす草庵に、飛脚が一通の書状をもたらした。

 伊賀藤堂藩侍大将、藤堂良長からの文であった。

 良長はかつて芭蕉が仕えていた藤堂良忠の継嗣である。

 芭蕉は文を披見した。

「一度、父母の墓参がてら、伊賀に帰郷してみてはいかが」とある。

 謎かけのごとき文面であった。

 芭蕉は首をかしげた。

 ――良長さまが、このわしに何用か。


 三日後、芭蕉は一抹の疑心と不安を抱きつつ、書状に添えられていた5両を懐に、深川の草庵を発ち、帰郷の途に就いた。

 貞享4年春のことであった。

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