第47話 世界の行方
会心の第5ラウンド、防戦の第6ラウンド、逆襲の第7ラウンドが終了し、激震の第8ラウンドが開始された。ロビンソンはここへ来て今までの劣勢が嘘のように息を吹き返した。拳の弾幕が明を襲う。一発一発に込められた気迫が今までとは違う。鬼の形相で修羅のように拳を振り続ける。一瞬でも満たされれば飢えを、渇きを、人はすぐにでも忘れてしまう。若き日の誓いを、汗と涙の数を、初めてグローブを嵌めた時のあの思いを。
「明くん、闘い方が上手くなっているね」
ロビンソンが繰り出した技に対し、首を捻ってパンチの勢いを殺したのを見て、観戦中の古波蔵が思わず褒めてしまうほど明のスキルは上がっていた。
試合開始前、秋奈と慎也は、空席を探してキョロキョロしていた古波蔵とグラッチェと偶然出会い、行動を共にしていた。そして、両国国技館の4人掛けのマス席に慎也、秋奈、古波蔵、グラッチェの順に座り、試合を観戦することになっていた。
皆の応援が、明の背中を強く後押ししている。対するロビンソンは、下から突き上げるようにパンチを打って来る。その両方がストレートのような威力とキレのあるフックだ。
当たれば一転、ダウンを奪われてしまうかもしれない。“たまには慎重になることも必要か”明はそう考え始めていた。
「攻めろ、攻め続けるんだ」
不意に聞いた五十嵐の声に明は第5ラウンド終了時に言われたことを思い返していた。牽制のための『スマッシュ』。左手を挟まれ、ボディには届かなかったものの、俄かにロビンソンの表情が険しくなって行くのを明は感じ取っていた。
その後放った右ストレートが命中し、あっさりと2度目のダウンを奪った明は、この勝負に明らかな手応えを感じていた。起き上がり、返す刀でロビンソンは連打の後の『ガゼルパンチ』しかし明は倒れない。
睨みを効かせ、凄んで見せるロビンソン。黒のトランクスは彼自身が黒人であることを誇りに思っている証。差別や偏見と戦い、人権を獲得して来たその歴史のように、己の拳一つで王座に就くことを決めた彼の決意の色なのである。
そのトランクスを鮮血の赤に染められることは、彼にとって我慢ならない屈辱なのである。津波のような怒りをロビンソン自身もコントロールできないでいた。明サイドに緊張が走る。怒りに震える巨体にその身一つで打ち勝たなくてはならない。俄かに暗雲が立ち込める。
瞬時に放たれる『ガゼルパンチ』。肋骨がヘシ折れたかと思うような衝撃。もの凄い赤居コール。立ってロビンソンを迎え撃つ。闘いは更に激しさを増し、加速するように第5ラウンドは終わりを告げた。ふとリングに目をやると、相手のセコンドが必死に何か捲し立てている。
「どうしたロビンソン?お前の怒りはこんなものなのか?」
セコンドのリチャードはロビンソンのプライドを刺激するように注力して話している。
「大丈夫だ。俺は絶対に勝ってみせる」
ロビンソンは鼻息を吹き荒らし、今すぐにでも勝利を我が物にせんと息巻いている。これほど不利な状況に立たされても、ロビンソンの屈強な意思は折れることを知らないようだ。
そして、嵐を呼ぶ第9ラウンド、一つの節目である第10ラウンド、鎬を削った第11ラウンド、魂を懸けた第12ラウンド、死を覚悟した第13ラウンド、息を吹き返した第14ラウンドが過ぎ去り、満を持しての第15ラウンドが開始された。明は雪辱を果たし、世界チャンピオンとなることはできるのか。
「こんな状況でも耐え続けるなんて、ロビンソンは本当に偉い奴だ」
「偉い奴が勝つんじゃない。勝った奴が偉いんだ。それにお前だって苦しさに耐えている。リングに立っている限り、誰にだって『勝つ権利』はあるんだ」
「五十嵐さんよく言ってくれたよな。積み上げて来たものが拳に宿るって」
「その通りだ。さあ、遠慮なんていらない。あのベルトをお前のものにする時が来たんだ。ぐうの音も出ない程にノックアウトしてやれ」
そしてゴングの音を聞いてからの『アストライドポジション』。両足を横に開いて両者死力を尽くした打ち合い。互いが全く引くことを考えない、『ナイフエッヂデスマッチ』のような、それを許さぬ『空気』があるのだ。
男と男の真剣勝負。二人とも逃げる気など毛頭ないといった覚悟であろう。どちらかが倒れるまでこの死闘は終わらない。自らのプライドを掛け、命を、魂を、人生を掛けて、相手をリングにひれ伏させるまで、殴るのを止めない。
そこから、勢いを増すようにして闘いは激しさを増して行く。貼られたままの、敗者というレッテルを剥がしたい。この試合二度目の『ガゼルパンチ』。明の口から生々しく血が垂れる。ロビンソンは両腕をブンブン振り回して来る。だが、もの凄い集中力を発揮している今の明には、ロビンソンの拳がまるで止まって見えるかのようである。
この試合を終えてロビンソンに勝つことができれば『強さとは何か』が分かることであろう。明の加速度的に攻撃の手を速めて行く動きに、ロビンソンはついて来れなくなって来ているようだ。ロビンソンのガードの隙間を縫って巧みにパンチをヒットさせて行く。
『雷轟電撃』一瞬の虚をついて明の『スマッシュ』がロビンソンの心臓を射抜く。
「決まった~。赤居選手の十八番『ハート・ブレイク・スマッシュ』だ!!」
実況の男が、興奮した様子で捲し立てる。そこから3秒間、20と8もの連撃をロビンソンンに浴びせ続けた。息を飲む観衆。横たわるロビンソン。
1、2、3――ロビンソンが意識を取り戻し、立ち上がろうとロープを掴む。
4、5、6――膝から上が浮き上がるが、支えとなっている左手がどうしてもリングから離れない。
7、8、9――不屈の闘志で右足を立てたロビンソンの口からは、鮮烈な赤い血が滴っていた。
カウント10!ゴングが鳴り、レフェリーが手を交差させる。
その瞬間、ロビンソンの右手がロープから離れ、鈍い音と共にリングに横たわった。
「勝ったあああああ」
明の声が会場にこだまする。歓喜爆発。苦しかっただけにその思いは一入である。大会委員から表彰状が手渡される。大儀を成した明の目には光るものが浮かび上がっていた。
インタビューもそこそこに、明がリングを去ろうとしていると介抱を受けたロビンソンがゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。
「いい試合だった。君のような強い選手と闘うことができて光栄だよ。ボクサーとして本望だ。悔いはないさ」
英語で言われたため意味は分からなかったが、拳を交えた者同士、言わんとするところは分かりきっていた。
「俺もこの試合ができて良かったよ。今日のことは一生忘れない。ありがとよ」
そう言って明はゆっくりと右手を差し出した。ロビンソンは満面の笑みでその手を握り、「サンキュー」とだけ言い残し、その場を後にした。
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