第40話 明の過去

1985年5月7日。白内障研究会が日本白内障学会と名前を変えた翌年、医学界はまた新たな一歩を踏み出した。堺医師から連絡を受け、五十嵐は再び歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院に駆け付けた。出迎えてくれた堺医師はすぐさま手術の説明をしてくれた。


「安全な手術ではありますが、一週間ほど入院が必要です。ですが、安心して下さい。必ず、健康な状態に戻してみせます」五十嵐は力が抜けたというように両肩を落とした。

「それを聞いて安心しました。私は何があってもあいつを世界チャンピオンにしてやりたいんです。手術は本当に慎重にお願いします」


「はい、もちろんです。全ての患者に対して、医学の粋を尽くして対応させて頂くつもりです。それにしてもそんな凄い方のオペを執刀するなんて、孫でも出来たら聞かせてやりたいような話ですね。術後に是非、今後の青天井をお聞かせ願いたいものです」


「そうですね。手術が成功したら、いくらでも話したいところです。けれど、今は明のことが心配なんです。できることなら代わってやりたいくらいだ。正直に申し上げますと、不安で堪らないんです」

「幾重にも重なった偶然が天命を運んで来るものです。大丈夫、約束を反故(ほご)にしたりしませんよ」その姿を見た五十嵐は確信した、この男になら任せても大丈夫だと。


 なぜならその姿は、初めての世界戦の前、鏡の中に見た自分の姿と重なって見えたからだ。数々の修羅場を潜り、難敵に挑む男の自信に満ちた表情を、この堺という男も持ち合わせていた。何も言わず深々と頭を下げ、五十嵐は明にこのことを伝えるためジムへ向かった。


「本当か?認可が下りたのか?やった。これでやっとボクシングができる」

明は飛んで跳ねて、これ以上ない程に喜んでいる。

「良かったね、明くん。これでやっと辛い日々が終わるね」

秋奈は今にも泣きだしそうな表情で明の喜びに応える。


「ああ、心配掛けちまったな。五十嵐さんにもずっと支えてもらってばかりで――皆には本当に感謝してる」明はそう言うと丁寧にお辞儀をして見せた。

「なあに、気にすることはないさ。大切な愛弟子の世話だ。お前が嫌と言っても焼かせてもらうさ。それより、手術の予定は一週間後だ。今日は家に帰ってしっかり身体を休めて、手術の日に備えるんだぞ」

五十嵐はまるで何か大きな偉業を成し遂げたかのように誇らしげな表情を浮かべている。


「分かった。ここで無理して悪化でもしたら事だもんな。今日からは安静にしとくよ」

軽やかに希望に満ちた足取りで家路に就く明の後ろ姿には、昨日までに見た悲壮な影は見られなかった。

一週間後、窓口で手続きを終え、明は母と二人、入院する準備をしていた。母親と二人きり。年頃の青年には少々キツいものがある。


「父さんが亡くなって、もう何年経つかな。あんたもこんなに大きくなって」

「しんみりさせてんじゃねえよ。妙に畏まっっちまって。あれはしょうがなかったって、今になったら思えるよ」

「それは大人になったからかもね。けど、私には到底そうは思えないよ」

「何だよ、心配させに来たのか?」弱気な母親に、明はほんの少し苛立ちを覚えた。

「そうじゃないよ。ただ、父さんの言いつけ――守んないといけないからね」


「何のことだよ?」心当たりはあったが、明は確かめるように聞いた。

「お前の身体――大切にしてやってくれって」それは父の最後の言葉であった。

「お袋のもだろ」明もその時のことを忘れてはいないとばかりに念を押す。

「そうだったね。ここんとこ働き詰めで寝るのを忘れちまいそうなくらいだったよ。ほんと、苦労をかけっぱなしで――」


「もういいだろ。そんな話」

定番の文句だが実の母に言われると心を打つものがあり、明は少々うんざりした様子で話を切り上げようとする。そうこうしていると、病室に五十嵐と秋奈が入って来た。

「あっ。おばさん。こんにちは。明くん、いよいよ今日だね。これ神社のお守りだよ。早く元気になってほしくて。千羽鶴も作ったからね」

秋奈は少しはにかんで大事そうに見舞いの品を明に渡した。目に隈を作り、少し眠たそうであった。その心意気が明の胸に大きく響いた。


「何だよ、こんなものまで作って。大げさだな。でも――その気持ち嬉しいよ。ありがとう」柄になく素直にお礼を言う明に、秋奈は少し照れてしまった。

「良いお母さんが居てよかったね。なんかちょっと嫉妬しちゃう」

秋奈は態と話題を逸らそうとする。


「お袋は小さい頃から病気がちで、それなのにここまで俺を育ててくれたんだ。特に、親父が死んじまって高校を中退してからは恥ずかしいくらいグレちまってさ」

「そう言えば明くんが中退した時の話、聞いたことなかったよね」

「悪りい。こんな話、つまんねえよな。もう止めにするよ」

「ううん、そんなことない。その話、聞かせてよ」


話が終わらないように慌てて繋ぎ止めると、明は側にあったベッドに腰かけて話し始めた。

「高校二年生の春頃に――」そう言って明は少し泣きそうになる。

それを見て、秋奈は明の右手を両手で覆うように包んだ。

「ゆっくり――ゆっくりでいいいよ」

「すまねえ――落ち着いたから話すよ」


「俺が高校二年生の春頃、親父が交通事故で死んじまったんだ。当時は悔しくて仕方がなかった。そのことでグレて不良仲間と連むようにもなった。そんなのは親父の望んだ『姿』じゃないって、今になったら分かる。けど、あの時はその怒りをどこにぶつけていいか分からなかったんだ。辛くて、苦しくて、どうしようもなかった。そんな時、五十嵐さんと――ボクシングと出会ったんだ」

明は一つ深呼吸をして、また話し出す。


「嫌なことから逃げちまってた俺も、不思議とボクシングには向き合えたんだ。学校を中退して落ちこぼれた俺が、唯一夢中になれたのものでもあった。人生やり直すにはこの道しかないと思ったよ」明は思いを噛み締めるように言葉を吐き出した。


「だから失いたくなかったんだ。最初は夢だった世界チャンピオンへの道が、段々と現実味を帯びて目標へと変わって行った。そのことが、たまらなく嬉しかったんだ。この手術、絶対に成功させてほしいと思ってる」

熱弁を振るう明の言葉に、秋奈の涙腺が緩んで来たようだ。

「う――。こんな時に泣いてちゃダメだよね」


だが、明の過去と決意に、秋奈は感極まって泣き出してしまった。

「秋奈――ほんと、心配掛けちまってるよな。だけど、安心してくれ。世界チャンピオンになる男が、病気なんかに負けやしねえよ。俺は必ず復活してみせる」

力強い明の言葉は、隣で聞いていた五十嵐を奮い立たせたようだ。


「よくぞ言った。それでこそ俺の見込んだ男だ。二時間後の手術まで、まだ時間がある。今は気持ちを落ち着かせて来たるべき時に備えるんだ」

その気迫の籠った言葉に明の口調にも一層熱が入る。

「おう。古波蔵さんにだって勝てたんだ。こんなところでくたばってたまるかよ。白内障を、一発KOしてやるぜ」



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