第33話 シューズ選びは難しい
「あっ!!」
突然明が大きな声を出したので、秋奈は驚いて身体をビクつかせる。
「もお~。ビックリするじゃん。どうしたの?」
明は少し申し訳なさそうにしながら答えた。
「シューズ買うの忘れてた。ここ、寄ってもいい?」
明が指差した先には『スロバキアスポーツ』という名前の小洒落た感じのスポーツ用品店があった。
「うん、いいよ。そう言えば、合宿で履き潰すまでずっと同じシューズ使ってたもんね。結構物を大切にするタイプだよね」
「なんか、使ってると愛着が湧いて来てよ。穴が開いて履けなくなっても、取ってあるくらいなんだ」
「いいことだと思うよ。どんなシューズにするかは決めてるの?これとこれ、なんだか素材が違ってるみたいだけど」
「近距離を得意とするインファイターは踏ん張りの効く『ゴム底』の靴を履いているんだ」明は饒舌に語り始めた。
「それに対して遠距離を得意とするアウトボクサーは足が滑らかに動くように『皮製』の靴を履いているんだ」秋奈は明の変わりように素直に感心した。
「そうなんだ、知らなかった。流石は、叔父さんに毎日教え込まれただけのことはあるね」
「まあな。合宿の時、耳に胼胝ができるってのはこういうことなのかと思ったよ」
秋奈は少し笑いそうになりながら質問する。
「それで、結局どっちにするの?」
「そうだな~。俺は中距離を得意としているんだけど、『スマッシュ』は踏ん張りが効かないとダメだからな。『ゴム底』の靴を買うことにするよ」
秋奈はまた一つ気になったことがあった。
「高さが高い『ハイカット』の靴と、中くらいの『ミドルカット』の靴があるね。それはどうするの?」
「ロビンソンの野郎が『ミドルカット』を履いてやがるからな。俺は『ハイカット』で対抗するぜ。時代の主流は『ハイカット』だしな」
『昭和』の時代においてはそうであったが、『平成』になると次第に『ミドルカット』が人気を博すこととなる。それは脱ぎ履きしやすく、ソール (靴底)が薄く、踏み込みがしっかりできるといった利点があるからであろう。
また、2000年代に入ってからは、安くて耐久性に優れているため、一流のボクサーでも『レスリングシューズ』を愛用するようになった。
無事にシューズを買い終えた後、人の多い目貫き通りを過ぎ、中華街で夕飯を食べることになった。『中華迅速』という名の店は大道りの中ほどに位置しているだけあって大変な賑わいを見せていた。二人は軽くメニューを眺めた後、店員の薦めでコース料理を頼んだ。
「っていうか、ホント美味そうに食うよな。見てるとこっちまで腹が減って来ちまうよ」
「だって酢豚好きなんだもん。ここの料理『グル名人』って雑誌で紹介されてて有名なんだって。けど、食べ過ぎは良くないよね。百貫デブになっちゃわないように気を付けないと」
百貫デブとは、江戸時代に太っている者を大袈裟に揶揄するために付けられた表現で、現在の重さに直すと、375キログラム前後の人のことを言う。
「百貫デブで思い出したけど、ポンドからキロに直すのがイマイチ上手くできなくってさ。ポンドの重さに0.454を掛けたら良いらしいんだけど、これだと暗算ですぐに計算できねえんだよな」
1ポンドは16オンスであり、听、封土などと表記される。1オンスは28グラムであり、啢、隠斯などと表記される。五十嵐から教えられた計算式に対し、明は少しだけ不満そうである。
「それなら良い方法があるよ!ポンドの重さを2で割って、その答えの十の位の数を引くの。例えば明くんは今130ポンドだから、65から6を引いて59キログラムになるってわけ。概算だから、ちょっと正確じゃないんだけどね」
秋奈は明と話す時は努めて簡単な言葉を使うように心掛けていたが、『概算』という言葉が出てしまったことに対して少し反省した。
「そんな方法があったのか!!知らなかったぜ。流石、勉強頑張ってるだけのことはあるな。頼りになるじゃんか」
良い方法を知った明は、喉の小骨が取れたといったように嬉しそうにしている。
「概算の意味、概ねの計算だって分かるんだよね?明くんだって勉強頑張ってるじゃん。前だったら分かってなかったと思うよ」
思いがけない明の成長に、秋奈は心底嬉しそうである。
「そうかな?まあ、五十嵐さんにあれだけ家庭教師みたいにして教わったんだ。少しは賢くなんねえとな。あと、もう一つ気になることがあって、パンツの履き心地が悪いんだよな。トランクスより良いやつがあったら嬉しいんだけどよ。それもなんとかなんないかな?」
ボクサーはトランクスの下にノーファールカップを履き、その下にパンツを履いている。このカップの素材は本革でできており、下腹部保護のために着用し、マジックテープ式で後部にゴムバンドがついており、オムツのような形をしている。
この時代にはまだ存在していないが、1992年にアメリカのファッションブランドであるカルバン・クラインがユニオンスーツをアレンジして『ボクサーパンツ』というものを普及させている。そしてこれは、2000年から男性用下着の主流として市場を席巻することとなる。
「それはちょっと分かんないな。私トランクス履いたことないし」
秋奈は少し困ったように笑いながらそう言った。ここで一旦話が途切れ、しばし沈黙が訪れそうになる。
「そう言えば聞いた?安威川くんの話」
「聞いてねえな。何かあったのか?」
明は好敵手の動向とあって、わりと興味ありげに話を聞いている。
「古波蔵さんとの試合の後から、日本チャンピオンを3階級制覇するんだって意気込んでるんだって」
「そうなのか!?あいつと闘るの楽しみにしてたんだけどな。階級変えちまったのか」
「試合の後にやけ食いしちゃって、元々体格が良かったこともあって、体重がどうしても戻せないんだって。ほんと残念だよね。ボクシングはライバルと再戦できずに終わることが多いものなんだよね」
秋奈も少しテンションを落とし、明の気持ちに呼応するように話していた。
「ここは俺が出すから」
そう言って明が支払いをしたのに対し、秋奈は終始申し訳なさそうにしていた。
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