第29話 修行と言えば山籠もり?

ロビンソンとの対決を終え、一行は明が入院している歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学付属病院に来ていた。五十嵐は『パンチドランカー』の症状がだいぶ軽くなっては来たが、『引退する』という決断に変わりはなかった。


 それよりも明の身体の方を心配しており、医者の静止を振り切って明の病室に寝泊まりしているほどであった。二日間ずっと眠っていた明が徐(おもむろ)に目を覚ました。


「おお、目が覚めたか。具合はどうだ?気分が悪かったらすぐに言うんだぞ」

 五十嵐の慈しみに溢れる言葉も、今の明には届いていないようだ。

「おっさん――。俺、負けちまったんだな」


「そんなことはいい。今は身体を休めることだけを考えろ」

「本当にすまねえ。あんなに無理言って試合を組んでもらったのに最低な内容だった」


 相当責任を感じているのであろう、明は目を伏せて合わせようとしなかった。

「そんなに自分を責めなくても大丈夫だ。お前は十分良くやったさ」

「五十嵐さん。俺にもう一度――ボクシングを教えてくれ!」


「ああ、もちろんさ。そのための『秘策』も考えてある。今までに教えきれなかった部分を、徹底的に教え込んでやるよ」

「ありがとう。頼りにしてるぜ」


 お世辞を言うような性格ではない。この言葉が明の本心なのであろう。

「しっかりとダメージが抜けたのを確認してから退院するぞ。これからの練習は相当にハードなものになる」


「望むところだ。バシバシしごいてくれ」

 あれほど壮絶な試合の後だというのに、明は臆することなく目標だけを見つめていた。


 それから2週間経ち、明は退院の日を迎えた後、米原の運転する車で、五十嵐、秋奈と共に、どこかへ向かおうとしているようだ。

「行くぞ、明」五十嵐はいつものような自信に満ちた表情であった。

「世界を制する者ならば求道者たれ」


 どこかへと向かおうとしている車の中で、五十嵐はそう言って語り始めた。

「今から向かうのは石川県金沢市にある医王山(いおうぜん)のペンションだ。そこで2ヶ月間の『合宿』を行う。感傷に浸っている時間はないぞ」


 五十嵐は今回、自分の体調を押してまで明の合宿に付き合うことを決めていた。

「そこで行うことは主に二つ。身体能力のベースアップと『奥義』の伝授だ」

 明は珍しく黙って話を聞いている。


「スマッシュはフックとアッパーの中間。ショートストレートとも少し違う技だ。元来アッパーの得意なお前に、しつこくフックを教えたのはそのためさ」

 秋奈も米原も、空気を読んで全く話していない。


「着いたぞ。今日からここが俺たちの根城だ」

 そう言うと五十嵐は車を降り、スタスタと先に歩いて行ってしまった。それから、米原に車の駐車を任せ、3人でペンションに入ることにした。


五十嵐は落ち着いて説明を始めた。

「トレーニングメニューは4日間ずつに分けて行う」


「一日目。まずは800mダッシュ。これを30本やってもらう。次にハンマーを使ってのタイヤ叩き。右手、左手、両手を100回×3セットずつ。それから、30秒間のボディ乱打。これを5セット。そして、車を後ろから押す。これを1km。最後に、鉄棒を潜る練習。これを10分やって終わりだ」


「二日目。まずは、仰向けになって手をついて50mを3往復。次に、クイを横に山肌に向かって5本打ち込む。それから、鉄棒があるので、そこで蝙蝠のようにぶら下がって口に紐で縛った鉄アレイを下げて起き上がる。これを20回3セット。そして、ボールを左右の手で受け取る練習。これを50回3セット。最後に10分間のサンドバック乱打。これを5セット。これで終了だ」


「三日目。まずは、タイヤ引き。50m×20本。次に片手での腕立て伏せ。片腕50回×5セット。それから、仰向けになって俺が腹に乗る練習。5分×5セット。最後に、傾けた首で身体を支える倒立。10分×3セット」


「そして極めつけは練習前に行うマスクを着用してのロードワークと、練習後に行う1時間のストレッチだ。これで常に酸欠の状態に慣れ、強靭な心肺機能を手に入れることができる上、硬くなった筋肉を撓(しな)やかで伸縮性に優れたものに変えることができる」


五十嵐はトレーニングのこととあって、もの凄く嬉しそうに話をしている。

「この3日セットをやって1日休む。と言っても、その日にはボクシングに関する知識を嫌と言う程刷り込んでやるがな。二ヶ月間文字通りボクシング漬けだ。まあ、覚悟などとうに出来ているだろうがな」


「年頃の若者なら遊びに行きたいという思いがどうしても強くなってしまう。だが、その気持ちを抑え、血の滲むような努力をした者だけが『栄光と勝利』を手にすることができるんだ。それは何物にも代えがたいほどの喜びなんだ」

五十嵐は一言毎に力を込めて語っている。


「両方取ろうなんて虫の良い話、通る訳ねえよな。それなら俺は迷わずボクシングを取るぜ」

「そう言うと思っていたさ。それから、これだけは覚えておけ、『上を見ていない奴に先はない』練習の虫となれ」


「お前は筋は良いんだが、パンチがほとんど手打ちになっている。腰の回転、下半身を使って体重の乗ったパンチは打って来なかった。今回の合宿では足腰の強化を目的とし、『新生』赤居 明としてリングに上がれるように鍛錬に励んで行くぞ」


「あとは、拳を出す側の足に体重が乗っている。昔からの癖だろうから変えない方が良いかと思ったが、この際思い切って直すことにしよう」

「45分間全力で闘い抜くためには、450時間の練習が必要だ。一日9時間で50日の練習。この合宿に耐えた暁には、もうペース配分なんてものは要らなくなるのさ。俺はもう歳だが、お前はまだ若いからな」


「まあそうだな。そういや、五十嵐さんって幾つなんだ?まさか40超えちゃいねえだろ」

「はっはっは。今更話すのもなんだがな。御年32歳だ。おっさんと呼ばれることには少し抵抗があったぞ。時代によっては若者扱いされる歳だからな」


「15歳年上なら俺にとっちゃ十分おっさんだぜ。それより、早く練習をおっぱじめようぜ。喋ってる時間が惜しいくらいだ。こうしてる間にもロビンソンの野郎は練習して、前より強くなってるに違いねえ」


 その言葉を聞き、五十嵐の表情は一気に真剣なものとなった。

「お前の言う通りだ。相手より上に立つには倍の努力をしなければならない。それでは行くぞ」


 友情、努力、勝利。漫画ならそういった要素が必要だそうだが、現実にはそう上手く揃うものでもないだろう。果たして明はこの合宿を乗り越え、この三つの要素を手にすることができるのであろうか。

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