第16話 VS 安威川 泰毅
1ヶ月後、兵庫県伊丹市にある大阪国際空港から神戸市中央区にある三宮のホテルへ行き宿泊した。そして、試合当日の1984年4月8日、定刻まで2時間の余裕を持って明は会場に到着した。
対する安威川は、それより10分後の4時10分頃に到着した。二人は会見で顔を合わせてはいるが、まだ互いを知るほどは会話していなかった。それから8時間経った午後6時、食事を済ませ、準備万端の二人は選手紹介を受け、軽快な足取りで入場した。
第38代JBC日本チャンピオン安威川(あいかわ) 泰毅(たいき)。兵庫県西脇市出身、近藤ジム所属で『インファイター』と『アウトボクサー』を両方熟せる『ボクサーファイター』タイプである。
「赤のコーナーからは、JBC日本チャンピオン安威川 泰毅選手の入場です」
168cm、117ポンド(約53.5kg)、19勝1敗0分8KO。 安威川は鮮やかに見える青のトランクスがお気に入りだ。身体の一部を使って打撃を防ぐ『ブロッキング』が得意な選手であり、カウンターに強い選手でもある。
「続いて青のコーナーからは、一路順風のチャレンジャー赤居 明選手の入場です」
紹介を受け、明はリングへと躍り出た。ボクシングではチャンピオンが赤コーナー、チャレンジャーが青コーナーから出て来ると相場は決まっている。リングではレフェリーがリング中央に立ち、ルールの説明を行っている。
「3ダウンでKO、キドニーブローとラビットパンチは禁止です」
『キドニーブロー』とは背中側から肝臓がある部分を叩く危険打のため、禁止されているパンチである。また、『ラビットパンチ』とは猟師が手負いの兎の首を切って介錯したことから来ており、後頭部を叩くことで後遺症が残りやすくなるという危険打であるため、同じく禁止されている。
明は安威川とレフェリーを交互に見て、いつもより鋭い表情を見せた。試合開始前、明が珍しく深呼吸をしている。
「どうした?今さら不安になって来たか」
「そんなんじゃねえよ。ただ、あの安威川って奴は今までの奴とは違う。そんな気がするんだ」
「その通りだ。だが安心しろ。俺の見立てではもう国内で活動している選手で、お前の相手ができるのは安威川くらいのもんだ。全力で倒しにかかれ」
裏を返せば安威川は米原会長のお墨付きの強さというわけだ。明の拳に力が入る。
「ファイッ」
審判の掛け声を受け、歩み寄ると言うより激突しそうな勢いで、両者前へ出て拳を交える。
「くっ」安威川の構えを見た明が、思わず声を漏らす。
“オーソドックススタイルか”
明はこの1ヶ月間、対安威川を想定して左利きを相手にするためのトレーニングを積んできた。しかしこの時、安威川サイドはそれを想定し、あえて右利きの『オーソドックススタイル』にチェンジして来ていた。
普段右利きの選手と対峙してはいるものの、練習で培ったものと試合本番での微妙な感覚の『ズレ』は精神的な動揺を誘うには十分だった。
安威川のジャブが、徐々に明に当たり始める。普通のジャブとは違い、左利きの選手の左手でのジャブは想像以上に重たいものであった。ペースを掴みつつある安威川に対し、出鼻を挫かれた明は、距離を取ることでそのイメージを払拭しようとした。
しかし、安威川は巧みなフットワークで明と絶妙な距離感を保ったままジャブを打ち続けて来る。焦る明。流れを変えようと右ストレートを繰り出した瞬間、安威川もそれに合わせて右ストレートを打って来た。刹那、明の右手は空を切り、安威川の右手が明の左脇腹に突き刺さる。先日の試合の、あの嫌な記憶が蘇る。
「うっ」
鈍い声を出し、明はリングに左膝をついてしまった。これはダウンとみなされ、レフェリーが1からカウントを始める。明は流石にタフであり、カウント3で立ち上がったが、多少覇気が薄れてしまったようにも見える。目も少し虚ろだ。
「赤居、後ろに下がるんじゃない。しっかりガードを固めて、相手と間合いを詰めてクロスカウンターを狙え」
明はちらっと米原の方を見ると、小さく頷いて見せた。ファイテイングポーズをとり、再び激しい打ち合いが始まる。間合いを詰めてみると、安威川は少し攻め難そうに左手を出して来るようになった。
“そう言えばコイツ左利きなんだよな”明はそう考えると安威川が不慣れな左手でのジャブを打って来ているという状況を冷静に分析できるようになった。
“少しかましてみるか“明はそう思い今まで打ったことのなかった『左ストレート』を安威川にお見舞いしようと考えた。タイミングを伺いジリジリと間合いを調節する。
“今だ”
そう思うやいなや全身の力を込めて左手を振り抜く。明の拳は安威川の右頬に突き刺さり、鋭い音を立てた。気を失いそうになる安威川。
だが、流石は五十嵐が認めた男、そう簡単に倒れてはくれない。安威川は右膝をついた後、明と同じくカウント3で立ち上がり、ファイティングポーズをとってみせた。
「泰毅、もうええやろ。奇襲作戦は終わりや。『サウスポー』にスイッチしろ」
市川会長の言葉に、安威川は振り向いて軽く頷いた。審判が試合を再開させようとした瞬間、ゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。
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