第2話 ジムにて

遅れることは当たり前のことだと思っていた。学校にまともに行っていなかった明にとって、遅刻することなど気にも留めていなかった。だが、この日は違った。


“もっと早く来れば良かった”明は強くそう感じた。スパー終盤、3ラウンド目が終わるころになってようやくたどり着いてからは『その光景』にクギヅケだった。


「やっぱり遅れて来やがったか。まったく、まずはボクシングより礼儀を教えねばならんかもな」


リングから降りるなり嫌味を言う男に明は文句ひとつ言わない。普段なら悪態をついて殴りかかり、馬乗りになっているところだが、今は嫌味を言われたことなど気にも留めない。


「俺にもやらせてくれよ!」

明は初めてテレビゲームを見た少年のように無垢(むく)な笑みを浮かべている。

「ダメだ」男の予想外の返答に明の機嫌はみるみる悪くなる。


「なんでだよ。ここに呼んだのはお前だろ。やらせてくれたっていいじゃねぇかよ。なんでダメなんだよ」明の態度とは裏腹に男は冷静に受け答えをする。


「基礎のなっていない者をリングで闘わせる訳にはいかない。それと、礼儀のなっていない者もな」明は少しムキになって男に詰め寄った。


「じゃあ、その基礎ってのを教えてくれ。まあ俺ならすぐにできるようになるだろうけどよ」男は少し怒ったように明を見た。


「ではまずは年上の者に対しては敬語を使うように。それと俺のことはお前ではなく『五十嵐さん』と呼べ」明はそれを聞いてすかさず言い返す。


「誰がてめぇなんかに敬語使うかよ。俺は基礎を知ってボクシングがしたいんだ。てめぇの子分になりに来たんじゃねぇ」五十嵐は予想通りの返答に少しだけ笑みを見せた。


「ボクシングは身体だけでなく精神の強さも試されるんだ。敬語も使えないようなガキにできるような甘いものではないさ」明は馬鹿にした態度で言い放つ。


「てめぇ俺にのされるのが怖いんじゃねぇか。昨日のはたまたまで勝負に勝てる自信がねぇからビビッてんだろ」五十嵐は冷静さを保ちつつ、しっかりとした口調で話す


「そんな安い挑発に乗るとでも思っているのか。ボクシングは頭も使うんだ。バカのままだと、俺に一太刀も浴びせられないままリングに沈むぜ」


明も昨日の今日で五十嵐の実力を忘れるほど馬鹿ではない。

「すげぇ自信だな。まぁてめぇの強さがハッタリじゃねぇってこたぁ分かってる。ただ、てめぇも俺がボクシングをやれば天下を取れることが分かっててここに呼んだんだろ?このままじゃ来た意味ねぇじゃねぇかよ」


五十嵐はさっきとは打って変わって真剣な表情で明と向かい合う。

「お前の言うことは半分は正解だ。確かにお前にはボクシングの才能がある。今からボクシングを始めれば本当にチャンピオンになれるかもしれない。だが、本当にお前にボクシングを教えたい理由は他にある。今はまだお前に言うつもりはないがな」


明は否定されると思っていた手前、予想外の返答に少し戸惑いを覚えた。

「てめぇには全てお見通しって訳か?偉そうに言いやがって。一体てめぇはどれほどのモンなんだよ」


それを聞いて五十嵐は今まで明に見せたことのない不敵な笑みを浮かべた。

「俺の実力はお前がボクシングを始めれば自ずと分かるものさ」

明は眉間にシワを寄せると吐き捨てるように言い放った。


「俺は下手に出るのが一番嫌いなんだ。てめぇなら俺の力を少しは受け止められるかと思ったが、勘違いだったようだ。俺はもう帰るぞ」

明があまりにも思ったような人物なので五十嵐は嬉しさを噛み殺した。


「人に敬語を使うのが嫌なんだろう。それはよく分かる。どうだ一つ賭けをしてみないか?」


明は振り返るとさっきとは違い、見て分かるほどに怒りを露(あら)わにした。

「てめぇいい加減にしろよ。やるのかやらねぇのかはっきりしろ」

五十嵐はグローブを手に嵌(は)めるとリングに上がった。


「本当はパンチングボールでもやらせたいところだが、そんな玉じゃねえよな。かかって来い。昨日のリベンジでも何でもいい、5分以内に俺の顔に一発でも入れることができたら礼儀の件は目を瞑ってやる」


明は拳を鳴らしながらリングに上がり、側に居た男にバンテージを巻いてもらってから、グローブを嵌めた。

「上等じゃねぇか。一発で済むと思うなよ」


その『姿』を見て五十嵐は少し可笑しく思うも、明の意外な一面に自らの気持ちが高揚しているのが分かった。

「なんだその構えは。そんな構えは見たことがないぞ。俺に勝つために考えて来たんだろうが、そんな子供騙しで俺に一発入れようなんて甘く見られたものだな」


明は左手を上に、右手を下にして脇を閉め、まるで刀を持った侍のような格好で構えていた。

「なんと言われようと喧嘩じゃ勝った奴が偉いんだ。格好なんか関係ねぇ」

真っ直ぐに見つめる明を見て、五十嵐は思わず笑みを漏らしてしまう。


「始めようか」

五十嵐は側に居た男にゴングを鳴らし、時間を計るよう頼んだ。

『カンッ』ゴングの音が辺りに鳴り響く。明はまず右手を力一杯振り抜き、五十嵐に襲い掛かった。五十嵐は避けることなく左手でそれを受け止め、次の一撃に備える。


明は自分の攻撃を五十嵐が避けるまでもないと判断したことに、ムキにならずにはいられなかった。すかさず左手で殴り掛かるが、少しタイミングをズラしてみる。

五十嵐は全く動じないばかりか明に対して間合いを詰めて来た。


まるで“お前の力はこんなものか。そんなんじゃ、何時まで経っても俺に拳を当てることはできないぞ”と言わんばかりに。明は小刻みにジャブを繰り出し続ける。

しかし、どれも五十嵐に受け止められてしまい、まるで相手になっていない。


昨日感じていた実力差よりも、本当は二人の力は離れているのかもしれない。

五十嵐がそう感じ始めると同時に、明が両手で同時に殴り掛かってきた。

「相変わらず出鱈目(でたらめ)な奴だな。まぁ勝ちへの執念は褒めてやるよ」


五十嵐にそう言われ、明は「うるせぇ」とだけ言うと右手の拳を大きく後ろに引いた。そしてその拳をアッパーカットの体制で五十嵐に思い切り打ち込んだ。

“思ったより力があるな”そう思うほど明のパンチで五十嵐は身体が仰け反っていた。


明は続いてボディに拳を打ち込もうとする。五十嵐はすぐさま身体を屈め、明のパンチを受け止めた。明はそれを見てニヤりと笑うと、思い切りリングの後ろまで下がり再び拳を引いた。


“この一撃で五十嵐の牙城(がじょう)を崩す”それだけが明の中にあった。

振りかぶった拳に全身の力を込めて振り抜く。


『パンッ』鋭い音がリングに響き渡る。素人同然の明のパンチなど五十嵐なら避けようと思えばいくらでも避けることができた。だが五十嵐は避けたくなかった。この一撃が今の明の力量。これを避けるくらいなら最初からスパーなどやっていない。


身体を大きく反らしながら、いつの間にか五十嵐の身体はロープに触れてしまっていた。ガードの外れた五十嵐に、明は間髪を容れず左手でアッパーをかます。五十嵐は鋭い眼光で明を見つめていた。『ゴッ』鈍い音が辺りに響き渡る。


「やったぜ」明がそう言うと同時にストップウォッチのタイマーが鳴り響いた。辺りにしばし沈黙が訪れる。


「良いパンチだった」

五十嵐はそう言うとグローブを外した。


「てめぇもしかして――」

明が話すのを遮るように五十嵐は話し始めた。


「お前には本当は人として大切な礼儀の部分を教えたい。だが今はそれよりもボクシングを教えたいと思ったんだ。どうだ、明日からこのジムに通ってみないか?」

明は少し返答に困った。


「俺は今、高校を中退してフラフラしてるような状態だ。月謝を払うようなアテがねぇんだよ」

「まぁそんなことだろうと思ったさ。月謝は暫くは俺が立て替えてやる。お前は俺が見込んだ男だ。出世払いにしといてやるよ」


「五十嵐!俺は人の施しを受けるのが嫌いなんだ。欲しいものは奪い取る。それが俺のやり方だ」

「では、お前は強くなりたくないのか?」


「俺は――強くなりたい」

明は悔しそうに顔を歪め、五十嵐は諭すように少し優しめの口調で言う。


「では、こうしよう。お前がプロになって活躍することを見越して、ジムの費用は俺が立て替えてやる。その代りプロになった暁には、それまでにかかった代金をお前自身で稼いだ金で払え。これならどうだ?」


明はなんとも言えない渋い顔をしている。

「なんか腑に落ちねぇな。結局てめぇの世話になってんじゃねぇかよ。まぁそこまで言われたら断るのもなんだか悪いし、今回は話に乗ってやるよ」


五十嵐は不敵に笑うとこう切り出した。

「ラーメンでも食いに行くか」

「なんか企んでんな。まぁいい、行ってやるよ。てめぇの奢りでな」

「良いだろう。そうと決まれば善は急げだ。さっさとシャワーを浴びて着替えろ」

五十嵐はそう言うと身体の向きを変え、明を残してシャワールームに行ってしまった。

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