瞼裏籠
空空
午前最後の来客
「瞼の裏側に棲み着いてしまったんです」
上品な白いハンカチが似合うひとだった。右目をしきりに気にしながら、さめざめと泣き暮れている。
「わたし、どうしたらいいのかわからなくて。こんなんじゃ双子の妹にも会えやしない」
受付のカウンター越しに、なんと返したものやら考えながら、お気の毒にとひとまずの定型文を投げ返す。
『お辛いでしょう』
「ええ、とても。だってここから外の景色を見るためにはわざわざ瞼を捲らないといけないし、なにより見ての通り、このひと、ずっと泣くものだから、わたし、溺れちゃいそうだわ」
泣き止む気配のない老紳士の右目から、可憐な声は饒舌に続ける。
「ねえ、早くなんとかしてくださらない? この紳士も随分お困りだし、わたしだってそろそろ次の住処を探したいわ」
不満を並べる右目に憑いた何かが喋るたびに薄い瞼を透かして、明らかにぼこぼこと蠢いた。悲鳴をあげる男性に対して、宥めるように両手をかざす。
『もちろんです。なんとか致しますよ、言うまでもなく、それが我々の仕事ですからね』
手近にあった電話を取り、内線をかける。
『二次課の
では別室へご案内します。立ち上がって移動を促すと、老紳士が遠慮がちに手をあげる。
「あのう。本当に、なんとかなるのでしょうか」
『お任せください。さあ、行きましょう』
所要時間は十分足らず。午前中最後の案件だったが、すんなり終わってよかった。
休憩室へ引き上げると、後輩の
「お疲れさまです」
『お疲れさま。ルーキーくんは、今日は午前あがりだったか。せっかくならここで即席麺を食べるのじゃなくて、なにか外へ食べに行けばいいのに』
「どっか寄って食べるのも面倒なんで。あとこのラーメン、賞味期限が明日までだったんすよ。明日は有給もらってるし」
『いいねえ、楽しんできたまえ』
「一日寝る予定っす」
『それなら、よい夢が見られるように』
冷蔵庫から取りだしたサンドウィッチを、行儀が悪いとは思いつつ、囓りながら席についた。
「先輩」
『なにかね?』
「さっき、瞼裏籠の人きてましたけど」
『ああ、この時期はやはり多くなるねえ』
「結局、どの文献をあたっても、一度憑いた瞼裏籠を落とすのは無理なんですよね」
最初に食べたサンドウィッチは、デザート代わりに用意していたピーナッツバターのものだった。食べる順番が狂ったのに肩をすくめると、後輩は片眉をあげた。いや失礼、片手を振ってから話の方へ意識を戻す。
『そう。だから、結局記憶の方を弄るしかないのさ。憑いた方にも、憑かれた方にも、最初からこうだったという情報で上書きする』
先程の紳士たちも、記憶室をでる頃にはすっかり落ち着いており、川沿いの桜を見ながら帰ろうと仲良く会話までしていた。
『引き合う因果が強い場合、無理に引き剥がしてもまた憑いてしまうものだから。結局、この方法が一番いいのだろうと思うよ』
「そうなんすかね」
『まあ、別の瞼裏籠が、空いたもう片目へ憑いてしまうと、もはや記憶操作では解決が難しくなってしまうが。憑かれた人は両目を専有されてしまうから、目を閉じっぱなしにするか、開けっ放しにするしかなくなってしまう。大抵は片目で済むから、滅多にない話だけれど』
「先輩。前に言ってましたよね」
『うん?』
「それがどれほど滅多にないケースであったとしても、起きないで欲しいと思うことほどよく起きるって」
受付の呼び鈴がけたたましく鳴った。
扉を開ける前から、老紳士のさめざめとした泣き声が聞こえてくる気がした。
瞼裏籠 空空 @karasora99
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