バームブラック ― Happy Halloween ―
ビスケットの家を作ると言ったのは、何年前の話だったか。聞き慣れない横文字の菓子の名前を聞いた
扉は『ちょこれえと』。窓は『どれんちぇりぃ』にして、『あいしんぐ』で雪も欲しいな、と言い始めた
今なら、チョコレヱトが茶色の甘くて苦い菓子だとわかるし、ドレンチェリーを作るには十日はいることも学んだ。さくらんぼを煮詰め、漬け液を変えるたびに色が透き通っていく様は楽しくてたまらない。宝石のように輝く赤い粒が日に日に透き通り、毎日、彼に会えるのも嬉しかった。
あの時は
今は、彼が生姜糖みたいな甘すぎる甘味は嫌いだと知っているので、きっとまだ存命だった無類の甘党である当主が食べたに違いない。
結局、お菓子の家は中途半端な出来になってしまって――
「どうした、杏。疲れたのか?」
「いえ、ちょっと気が遠くなって」
心配そうに顔を曇らせる克哉に、杏は貴方のせいですからねとは突きつけることはできなかった。
大地震から一年の月日の間、心臓が常に忙しかったのは杏だけに違いない。
本気になった克哉がとことん極めることを杏は甘く見ていた。
前までは道端の花を見つけたような気軽さだったのに、照らすような笑顔を向けられては、杏も杏で好意を向けられていると自覚せずにはいられない。態度も距離も確実に攻めてきている。
一人でやきもきしている方が楽でよかったと考える時さえある。
何より困っているのは、菓子を与える数が多くなったことだ。渡される菓子も菓子で問題で、みな手作り。復興を続ける帝都の一役を担う彼に暇なんてないはずなのに、調理場で見かけることが多い。準備のいいことに、三浦商事にかけあってスパイスやゼラチンも融通してもらっているという。
目を光らせる杏に対して、克哉の顔色はすこぶるいいので文句のつけようがない。代替わりした元料理長も顔を出すたびに手際がよくなっていると呆れ混じりの感心をしていた。
今日も遅れた昼食を取りに来た杏は克哉に捕まった。ため息をつきたいのを我慢して、聞き直す。
「もう一度、菓子の名前を教えてもらえませんか」
「バームブラック、だ」
『ばーむ』はわからないが、『ブラック』ならわかる。『黒』という意味だ。友人から横流ししてもらった本に書いてあった。
胸の端がきりりと引き締められる。少しずつ近づいていると思っていた差は、いくら勉強しても埋まらない。
顔を曇らせる杏に眉をひそめた克哉が口を開きかけた時、勝手口が叩かれた。ごめんくださぁいという声と同時に扉が開く。
「なぁに、それ」
杏も克哉も声の主を見て肩の力を抜いた。
使いで来たヤチルは幼さの残る指で作業台の上を指す。
丸い型からは菓子が膨れ上がっていた。洗濯桶に盛り上がる泡の形に似た生地は焼きすぎているようにも見える。フルーツケークのような甘くて鼻を刺激する香りは複雑だ。何が違うのか。杏はじっと探ってみたが、スパイスの香りに邪魔をされ、答えが導き出せなかった。
お前も食べるか、と訊ねた克哉に、ヤチルは目を輝かせて頷く。
微笑ましく見守った杏は、羨む気持ちをやかんの蓋と一緒に押し込んだ。思い返せば、克哉から与えられるものを遠慮ばかりしてきた。『与えられる』ことを喜べなくて、『返せない』ことが悔しくて意固地になっていたと言ってもいい。
確かに菓子も『与えられている』はずなのに、断ることができない。見たこともない菓子を出されるという点も大きいが、両親の魂が込もった菓子を知っている杏は彼の菓子だけを突っぱねることはどうしてもできなかった。往生際の悪い口でしぶりつつ、結局は受け取ってしまう。
克哉の好意に応えるつもりがないのなら、受け取らないのが一番だとわかっている。いっそのこと、素直にもらう可愛さを身につけた方がいいのだろうか。人の心を手玉に取れるような、すげなく
甘えた想いも湯気となって消えたらいいのに、と薪ストーブにやかんをのせる。
「切ってくれないか」
克哉の声に顔を向ければ『ばーむぶらっく』が型から外されていた。増した香りに口の中に唾があふれる。
菓子から目が離せなくなる瞬間なのに、杏はひっかかりを覚えた。克哉の言い方が、妙にまどろっこしく感じたのだ。
平素の彼なら『切ってくれ』か、『切ってくれるか』と小気味いい言葉選びをする。『切ってくれないか』と妙にへりくだった言い方はしない。
首の後ろがむず痒く感じた杏は、菓子はそっちのけで克哉を盗み見た。
克哉の出で立ちや行動はいつも通りだろう。表情が少し固い気がしなくもないが、初めての菓子を作ったからかもしれない。
気のせいだろうかとまな板の上に置かれた『ばーむぶらっく』を見る。焦げ茶色の焼き菓子は切ってくれと言わんばかりにどっしりとしていた。
果たして、克哉という人は新しい菓子などで臆するのか。
否、しない。絶対、新しいおもちゃを見つけたような顔で、杏の感想を聞きたくてたまらないとうずうずしているはずだ。
菓子に秘密があるのだろうかと杏は包丁をバームブラックにたてる。切る前にもう一度、克哉を見る。虚をつかれたらしい彼はわずかに目を見開いた。
何を口にするでもなく、見つめ合う。
いつもの克哉なら、じとりとした目を向ける杏を調子よく茶化すか、気にするなとでも言うように笑うはずだ。今回ばかりは違うようで、彼方に目線をやっていた。
「ねぇ、切らないの?」
ヤチルの催促に、矛先を納めた杏は傘を広げたように六当分に切り分けた。ほんのりとあたたかい生地はパンのようにやわらかいが、手応えがある。理由は断面を見れば明らかだ。見た目通りとも言うべきか、飴色の生地に、レーズンや何種類かのドライフルーツが入っている。フルーツケークのしっとりとした生地とはまた違った食感を楽しめそうだ。
知らず知らずのうちに出ていた唾を飲み込んだ杏は、女中頭仕込みの澄まし顔で訊ねる。
「お茶はどうしますか」
「紅茶だろうな」
悩みもせずに答えた克哉はいつもの顔を装っていた。
やっぱり、杏は納得いかなかった。紅茶を蒸らしている間、悶々と考える。
菓子のこととなると話が止まらない克哉が何も語らないなんて。由来やら云われやら、はたまた食材の特徴まで語り尽くす彼が何も言わずに皿とフォークの準備をしている。
蒸らすだけのわずかな時間で理由を突き止められなかった杏は、煮え切らない顔で準備されたカップに紅茶を注いだ。訊いたら早いのだろうが、克哉が隠したいことを聞き出すのも気が引ける。
ヤチルのカップには水を足してやって、三人で椅子に座った。
「どれにする?」
「どれも一緒でしょう?」
わざわざ訊ねた克哉に、杏はつい言ってしまった。何か言いたそうにした彼が閉口したところで、やってしまったと気が付く。
気まずい雰囲気をはね飛ばしたのは、ヤチルだ。克哉に一度だけ菓子をもらえなかったことがよほど許せなかったのか、遠慮をせずに一番大きそうなひと切れを指差す。
「これがいい!」
選んだものを皿に移してやった杏は克哉に目配せする。
「……自分で選ぶ菓子なんですか?」
「……そうだな、そういうもんだ」
嘘をつけない克哉がそういうなら、そういうもんなのだろう。
杏は一番小さいものを選び、克哉のものを取ろうとして、食べてくれと促された。戸惑いながらもフォークで切り分けようとした矢先、隣から高い声が上がる。
「ボタンがはいってる」
「嘘、飲み込んでない?」
慌てる杏に、口の中からボタンを摘まみ出したヤチルは大丈夫だと言わんばかりによく噛んで、ごくりと飲み込んで見せた。果敢にも、もういっこをねだられたので、気を付けるよう言い含めて大きそうなものを皿にのせてやる。
美味しそうに食べる幼子に胸を撫で下ろした杏は、受け取った黒いボタンを見下ろした。焦げ茶色の生地がこびれついてはいるが、覚えがあるのは克哉付きの従者のものだ。取引に動向することもあり、黒い洋装を着込んでいることが多い。調理場で落とすようなヘマなんてしそうにもない姿を思い出して、疑念をヤチルの横に向ける。
肌寒くなってきたというのに、上着を脱いだ克哉は腕捲り姿だ。辛うじて暖が取れそうなベストには、胡桃色のボタンが光る。
目が合って観念したのか、克哉は杏が選んだ隣のものを掴んで、そのまま齧りついた。呆気に取られる杏をよそに、残りも大きな口に放り込んで指についた粉を舐めとる。汚れていない方の手でヤチルの皿へひと切れを置くと、皿に残った最後の物に手をつけた。
杏は、くずだけになったまな板に唖然とした。克哉を見れば、手にしていたはずの『ばーむぶらっく』が跡形もない。まずいわけでもないだろうに、肘を付き行儀が悪かった。嗜めようと声をかけかけた時、不貞腐れた横顔が軽くしかめられる。
への字に曲がっていた口から摘まみ出されたのは一枚の硬貨だ。
にぶく光る硬貨に半眼向けた克哉は、一笑して皿に置いた。
困惑顔の杏に、罪をさらすよう男は語り始める。
「バームブラックはな、紅茶で煮詰めたドライフルーツやスパイス、ウィスキーを入れて焼き上げる新年を占う菓子なんだ」
新年にはまだ早いだろうとか、『うぃすきぃ』も気になるが、それ以上に興味を引かれたことを杏は訊ねる。
「占う?」
「お
克哉がボタンや硬貨を指差して、布や指差しもあるが、口に入れるのはちょっとなと続けた。改まってひと呼吸を置き、机の上で腕組みをした克哉は、賭け事をするかのように挑む笑みを浮かべる。
「ま。定番はもうひとつある」
「何ですか、それは」
隠さなくなった克哉に、杏も遠慮をしなかった。わざとらしく黙りを決め込む彼を睨んでも、一歩も引かない様子だ。
不敵で自信に満ちた顔に怯えを見つけてしまった杏に緊張が走る。
己の信念を貫き通す彼が揺らぐなんて、錯覚だろうか。
「これも食べていいの?」
さすがに半分も食べてはとヤチルが遠慮をし始めた。食べたいに決まっているのに、我慢をさせては可哀想だと杏は気持ちを切り替える。
彼は黙ったけれど、菓子が答えを知っているはずだ。
「気にしないで」
「でも、姉ちゃん、食べてないよ?」
「一緒に食べよう」
杏が微笑んでみせれば、ヤチルは嬉しそうに頬をゆるめた。
四の五の言うのはお仕舞いだ。バームブラックに向き直った杏はフォークを入れた。
弾力のある生地に力を込めて、大きめに切れたものを口に放り込む。固めた綿を噛み締めているような、やわらかさとしなやかさは食べ応えがあった。ほろ苦い生地と噛み締めるごとに広がる甘みが混じり合う。紅茶のコクがレーズンの濃い甘みを深め、柑橘が後味をすっきりとまとめてくれる。
もうひと口、とフォークをのばしかけた時、杏の目に光るものが入った。
黒い斑点が並ぶ飴色の中に埋もれる、黄金色。きらりと光を放つものを掘り出して、確かめるように克哉に目で訊ねる。
食えない顔は、意地悪くも見えて何処かあどけなかった。綻んだ口が種明かしをする。
「指輪を引き当てた人は、一年以内に結婚するそうだ」
杏は思わずフォークを落としてしまった。カァンと鳴り響く音が遠い。
「絶対当たるわけじゃないぞ」
わかってます、という声は音にならない。
絶対、という言葉でふと昔の記憶がよぎる――絶対、菓子の家を作ろうなと約束したことを。きっと、今なら作れるだろうと杏も頷ける。たくさんのことを教えてもらって、自分で歩けるようになったのは、皆のおかげだ。
押し黙った杏を気遣ってヤチルがフォークを拾ってくれた。まっさらな目が心配そうにのぞきこんでくる。
「けっこん、いやなの?」
嫌でない。嫌ではないが、無理だとは思っている。上手く説明できない杏はもがく口を引き締めた。耳に届く堪えるような笑い声が憎らしい。声の主をじろりと睨み付けてやれば、さらに笑われる。
「菓子を我慢する時と同じ顔になってるぞ」
細められた目は、あまりにもまぶしかったが、当分、許してやらないと杏は誓った。
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