甘味伯爵 ―恋菓子の料理帖―

かこ

序 甘い薬

 草鞋わらじが脱げたにも関わらず、あんは振り返ることができなかった。抱えた風呂敷の重さも忘れ、足をもつれさせながら走る。誰もいない薄暗い路はまっすぐだというのに、もう何処だかわからない。

 烏の声が聞こえ気がする。

 声にならない悲鳴は嗚咽に邪魔をされ、にじむ視界には誰もいなかった。息が苦しい、喉が、胸が焼きついたように痛い。


「危ないぞ!」


 横道から飛んできた声に小さな体が跳ねた。驚きで足は止まったが、震え上がった四肢はちっともいうことを聞いてくれない。男の影が近付くのも怖くて風呂敷にすがるように体を丸める。これ以上ないぐらいにうるさかった心臓が耳のすぐそばで暴れているようだ。


「猫にしては大きいと思ったら、子供か」


 後ろから聞こえた物言いは呆れていた。

 叱られるわけではないと、風呂敷にかかる手に力をこめ、そろそろと振り返る。

 黒光りする革靴、裾の擦れていない黒いズボン、揃いの詰襟――何処かの学生みたいだ。夕陽に照らされ影の落ちた表情はやわらかい。

 ほっと息を吐いた杏は風呂敷を落としそうになった。あ、と吐息がもれる。

 落ちるのを止めたのは青年の手だ。腰を落とし、下から支える形を取る。


「そんなに急いで何処に行くって言うんだ」


 呆れ半分だが、非難の色はなかった。

 杏は何度も口を開いたり閉じたりを繰り返した。唾を飲み込めば涙の味だ。辛抱強く待つ青年に後押しされて勇気を振り絞る。


「ほん、じょう、さま、の、やしき」

「何だ、うちだったのか。苦労をかけたな。その風呂敷を預かればいいのか?」


 引き受けようとした手から守るように杏は風呂敷を強く抱き締めた。

 目を丸くした青年は、一寸の間、黙りこくった後、やわらかな声で名乗る。


「俺は本条ほんじょう克哉かつや、本条の嫡男だ」


 克哉がさぁと促しても、杏は風呂敷を強く握るばかりだ。絶対に届けるんだという使命感が妥協を許さなかった。


「まぁ、いい。着いてこい」


 克哉は後ろを見向きもせずに、進んでいく。

 慌てて追うも、足の長さが違うので駆けるようになるのは必然だった。重い荷物を持っていては余計に息が上がる。

 塀の向こうに瓦ではない屋根を見つけた杏は目を輝かせた。母について届けに来た屋敷と同じ松の葉色の屋根に白い壁、縦長の窓ガラス。二階建ての洋館を囲むのは紅く染まった楓だ。

 輝いたのも束の間、杏の目尻に再び涙が浮かぶ。行き着いた先が見覚えのない門だったからだ。


「どうして、また急に泣きそうになるんだ。着いたんだから、喜ぶところだろ」


 腰に手をついた克哉は耳の後ろをかいた。

 ここが本条の屋敷だぞと重ねられた念押しに杏は全身で首を振った。ボサボサの髪が広がり、さらに乱れる。

 肩を落とした克哉は、わけがわからんと小さく悪態をついた。小さな目に怯えが走るのを見て、気まずげに姿勢を正す。


「屋敷は合っているだろう」


 こくりと杏は頷いた。


「何が違うって言うんだ」


 押し黙った少女を青年は根気よく待つ。


「……もん」

「もん?」

「……は、はいる、とこ、ろ」


 あたふたと慌てる杏とは逆に、門か、と克哉は得心したようだ。


「いつもは裏門から入っているんだろう。来い、今度は絶対に間違いないぞ」


 裏門に案内された杏は転がるように厨房へ駆け込んだ。馴染みの料理長がよく来たねと風呂敷を預かってくれる。

 中身を確認しようと風呂敷を開けた頃、遅れて克哉が顔を出した。坊っちゃん、と驚く料理長をよそにお重に並べられたおはぎを二口で食べてしまう。

 十口でもまだ残る杏は目を白黒とさせた。

 手についた餡を舐めとった克哉は満足そうに餡のついた口に弧を描く。


「やっぱり、おはぎと言えば鈴美屋だな。餡が一等、美味い」


 ほめられた杏は胸がふわりと浮かんだ。自分が大好きなものをほめられることは一等、嬉しい。


「ほら、褒美だ」


 ポケットを探った克哉の手がのびてきた。

 ずいと出された大きな手に杏は後ずさる。


「し、しら、ないひと、から、ものを、もらったら、だめって」

「つべこべ言うな。薬だ、薬。体にいいぞ、ほら」


 中途半端に開いた口に何かがねじ込まれる。

 舌で溶けた味に杏の心は震えた。こんなに甘くて、濃い味は始めてた。しかも、まろやかなコクがある。口を閉じて、舌の上で転がせばさらに風味が広がった。涙の味も消えて、次々に広がる口いっぱいの濃い甘みに体が感動をしている。薬だと言ったのに、ちっとも苦くない。どこか遠くに香ばしさがあるだけだ。


「お前、帰り道わかるのか」


 黙々と薬だと言われたものを堪能していた杏は降ってきた言葉に青ざめた。見る見る内に、幼子の瞳に涙の幕がはられる。こぼすまいと瞬くと、薬がのっていない掌が飛び込んできた。


「鈴美屋まで送ってやるよ」


 あたたかな声に誘われて、そろりと顔を上げた。目が合えば、細められる。

 今度こそ、杏は大きな手に自分のものを重ねた。やわらかく握られて、並んで歩く。

 恐くて恐くて仕方がなかった道が、ちっとも恐くなかった。手の平に伝わるあたたかさと、口の中で溶ける薬のおかげだ。

 ぼんやりと眺めていた景色に見慣れた暖簾のれんがはためく。


「またな」


 見上げた笑顔、橙のやさしい夕陽が眩しかった。あたたかい手が頭を撫でる。

 また、という言葉を疑わなかった杏は、またねと手をふった。

 それから五年、会えないことも知らずに。



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