31 恋結ぶ ほろふわサンド 参
店に行ってみると言った兄を、杏は気を付けてと手を振った。
急に秋めいた空は高く、雲が描く筋は気が遠くなるほど伸びている。麓から広がる焼け野原は曇天のように暗く、曲がった兄の背は頼り無さげに進んだ。
辛うじて燃えなかった建物もいつ崩れても可笑しくないような有り様で、遠くに見える緑は
兄の背が景色に馴染んだ頃、楽しげなミネが戻ってきた。完売したわと洗った鍋を見せびらかしてきたが。期待した反応は返せなかった。無気力に街を眺める友に目を瞬かせ、横に並ぶ。淀っていた空気をゆっくりと吐いたミネは、大きく息を吸う。
「辰次くん達が頑張ったんだって」
曇天のような大地の一角に光がさすように、生き残った町があった。奇跡だよね、と続いた言葉には、一抹の希望が込められている。
そうだね、と吐息のように答えた杏は見る影のない帝都に背を向けた。細い枝を踏みしめながら進んでいるとすぐにミネが追い付いてくる。
「きっとまた、ここで屋台も開かれるよ」
ミネは元気付けようと言ってくれたことは、杏にもわかった。同じ傷を受けたのだ。ミネだって、辛いことも十分わかっているつもりだ。
しかし、杏には屋台の思い出は克哉とだけ。いつか行こうと言って果たされなかったのは、両親との約束だ。服の上からとんぼ玉を握りしめたが、心細さを吹き飛ばしてくれる彼はいない。
同情がにじむ友の声が杏を呼ぶ。
応える強さが何処かに隠れてしまって、引きずり出すことができなかった。克哉の菓子を願いそうになった杏は震える指先に力を込める。
「ねえちゃん、りょうりちょうが よんでる」
袖が引かれて驚いた杏は、胸元から手を離した。僅かな違和感に眉を寄せ、胸元を確かめても、あるはずの感触がない。
服の上からまさぐる主を嘲笑うように、とんぼ玉は逃げていく。胸元から腹へ、するすると太ももに転がり、こんと落ちた。楽しげに跳ねた玉が坂道をくだる。右の石にぶつかり左の枝にそって滑り人に蹴られ、杏を翻弄する。
誰かの靴で止まったと顔を上げたら、鬼がいた。
ぼさぼさの髪に浅黒い肌、のびた髭は短かったが、小柄な杏を見下ろす背丈に怯えることはない。細められた目が何処までもあたたかいと知っていたからだ。
身体中を巡る熱に杏は時を忘れた。指先でつままれて渡されたとんぼ玉を両手で受け取る。
コイツも生き延びてたか、と笑んだ克哉は晴れやかな顔をしていた。
「ご無事だったんですね」
とんぼ玉を握りしめて言った杏を安心させるように克哉は歯を見せて笑う。
「ちょっと火消しを手伝っていただけだ」
「火消しに無我夢中になりすぎて、ぶっ倒れてたの間違えだろう」
地を這うような声に、全身に震えがかけ上がる。
恐る恐る克哉の背後をうかがえば、腕組みをした圭輔が綺麗な顔にしわを寄せていた。別世界にいたのだろうかと思えるほどに小綺麗な格好をしていたが、靴は砂埃で汚れている。
寝てただけだろう、とけろりと返す克哉はあいかわらず心臓に毛が生えているようだ。虫けらを見下ろすような視線を向けられても、針の先程も気にしていない。
歓喜極まっていた杏の心が一瞬で冷えた。それなりに積み重なった付き合いと見聞から、聞かずとも悟る。
どこぞの放蕩男は火消しに加勢したのはいいものの、体力つきて寝ていた所を圭輔に拾われたのだと。
「人の心配も考えてください」
杏が冷たく言い放てば、次に活かすと克哉はいっぱしの口を叩いた。
杏は、次なんてあってたまるものかと瞳に込めて睨み上げたが、全く手応えがない。
追いかけてきたヤチルは杏の背に隠れ、遅れてきたミネは大きく開けた口を手で隠す。
「あら、克哉様。やっぱり生きていましたか。犬も追いはぎも避けて通りそうですもんね」
「言うようになったなぁ、ミネも」
「これっぽっちも効いてないでしょうに」
幼い子を諌めるような顔で、ミネは杏に目配せをする。
もっと言ってやれと語る瞳に、杏は首を振った。
苦笑したミネは、やいやいと言い合いをしている圭輔と克哉に呆れ顔を向ける。
「旦那様が別行動をする、て言った理由はこれだったわけね」
「奥様はご無事なの?」
杏の質問に、ミネはすぐには答えなかった。周りの様子をうかがった後、口元に手を添えて耳打ちする。
「体調が優れないみたいだから別荘に行くように言われて、喧嘩になったのよ」
痴話喧嘩だけどね、と付け加えたミネは肩をすくめた。
あまりにも杏の顔が深刻だったらしい。ミネはもう一度、周りを見渡して、つわりよ、と聞こえるか聞こえないか際どい声で囁いた。
拍子抜けした杏は、圭輔を見た。落ち着きがないのはそのせいかと納得する。ならば、克哉を早々に回収した方がいいだろう。声をかければ、克哉はすぐに振り返る。
「何かあたたかいものを作りますから、みんなの所に行きましょう」
道すがら、屋敷の皆で逃げたこと、男手は後始末に街に出ていること、伝手のある者は里に帰ったこと、
料理長の姿を見た克哉は破顔する。目に光るものをためた料理長は克哉の手を握った。
「どこをほっつき歩いていたんですか」
「安心しろ、邸は無事だ。窯も薪ストーブも生きてる。後、菓子道具もな」
「どこまで菓子狂いなんですか!」
生きていればこそでしょう、と怒鳴る料理長を杏は初めて見た。
さすがに応えたのか、見開いた目を伏せた克哉は、母さんのために親父が建てた家だからなと白状した。
我慢できなくなった杏は彼の名を呼んだ。向いた顔を見据え、筋金入りの親不孝者に言ってやる。
「守りたいものがあったとしても、死ぬのはいやです」
杏と克哉の目が線で繋がれたように見つめ合う。
確かにそれは杏の気持ちだった。でも、それだけではない。生きてほしいと願ったのは彼の親だって同じはずだ。
自分の気持ちに惑わされ、忘れてはいけない想いを踏みにじっていいわけがない。悲しくともつらくとも生きることを諦めたくなかった杏を救ってくれた克哉には気付いて欲しかった。
すまん、とぽろりとこぼれた言葉に克哉が一番驚いている様子だ。考える素振りを見せてほろ苦く笑う。
「馬鹿をしそうになったら止めてくれ」
仕方がないなと杏は頷いた。
圭輔とミネ達が物を取りに行くと言うので見送った一同は役割を分担することにする。
幼子を連れ歩くのは危ないと料理長が出ている女中頭や男達に伝えに行く形になった。
杏はヤチルと留守番だ。濡れた手拭いを用心棒代わりの克哉に渡す。
南瓜を抱えた横で、克哉が物珍しそうに材料を見た。まさか菓子を作ろうとしているのか、と目を光らせたそばから、大きな麻袋を開けてしまう。
「ブラウンシュガーじゃないか!」
興奮した様子で揃いの袋も開けた克哉は目を見開いたまま動きを止めた。瞬きを忘れた瞳が杏に向けられる。
「これ、どうしたんだ」
克哉の目に捕らわれた杏は答えに困った。南瓜をまな板に置いて、無駄に時間を稼ぐ。克哉の瞳は真剣で、誤魔化しようがない。
南瓜に向かってため息をついた杏は覚悟を決める。
「父ちゃんが使っていた小豆と砂糖です。兄ちゃんが置いていきました」
力ない言葉に、黙りこんだ克哉は袋を見下ろした。
風もなく、時と雲だけが過ぎていく。
なぁ、アンと小豆に語りかけるように名を呼ばれた。息をととのえ、上げられた顔は杏を逃がさない。
「火事から町を守りきった時、俺は一等美味い餡を食べたいと思ったんだ」
俺はあれが食べたい、と重ねられた願い――想いに、杏は応えたかった。開きそうになった口を食い縛り、小豆と砂糖にも、揺らいだ心にも背を向ける。空っぽの胸元の代わりにスカートを握りしめれば、ポケットにしまいこんだとんぼ玉があった。情けなくて涙を流しそうになった杏は、太ももをつねる。引っ込んだ涙の代わりに言葉を絞り出した。
「炊き方なんて覚えてません」
「餡は菓子屋の命だろう。絶対、叩きこまれてる」
背中に迫る克哉を無視した杏は南瓜をまな板の上に置いて、切り始めた。
餡を炊くことはよく手伝ったことはあるが、見極めや仕上げは必ず父がしていた。餡作りは、母だって任されたことのない
炊き方は覚えているが、同じ味にできるかは自信がない。
克哉の力強い瞳に勇気付けられても杏は頷きたくなかった。
「父ちゃんの餡は一等美味しいです。その味を、みぃんな忘れてく。わたしが忘れても、父ちゃんも母ちゃんも許してくれるだろうけど、わたしは、絶対に――許したくないんです」
杏の手に残ったものは、熱のない位牌ととんぼ玉だけだ。忘れたくない思い出を自分で壊すことは絶対にしたくなかった。
「アンが作った餡が食べたいんだよ」
克哉の殺し文句に、杏は押し黙った。
まだ迷っている自分を追い込むよう南瓜に刃を入れる。
作れないから、小豆がもったいないから、いろいろと言い訳を探してみたが、どれも違う気がした。
切り口から現れる濃い橙色が憎らしく思えてきた杏のエプロンの紐を引く者がいた。
「かあちゃん、なんきんのぜんざい すきなの」
我に返った杏は自身の背中に張り付いたヤチルを見下ろした。
ヤチルの言葉に決まりだな、と笑ってくれた人がいる。
導かれるように顔を上げた杏の瞳に、茜色に染まった時と同じ顔が映る。
一番の理由は喜ばせたいだった。鈴美屋の餡を一等美味いと言ってくれた彼を悲しませたくない――忘れないでいてくれた人を喜ばせる強さが欲しい。
失敗したって、鈴美屋の餡ではなくたって、きっと彼なら美味いと言ってくれる気がした。一等は取れなくても、一等を探せばいい。克哉ならとことん付き合ってくれそうだ。
南瓜、小豆、砂糖、最後に克哉を見据えた杏は重い口を開く。
「たんと作りますから、食べてくださいよ」
「望むところだ」
心の底から嬉しそうに笑うものだから、一生、叶いそうにないなと心の中で嘆息をついた。
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