22 恋わずらいとさくほろブレッド 弐
長いと思っていた焼き時間は、片付けを済ませ、番茶を飲んでる内に過ぎていく。
香ばしく芳醇な香りに今か今かと杏は首をのばして窯口を見てしまった。苦笑する克哉に、しばらく冷ましてからなと注意されても気にならない。焼きたての菓子は楽しくて美しくてずっと見ていられるからだ。
ビスケットとは違う味わいだと言っていた。どんな味がするのだろう。頭の中で思い描いてみるが、心が浮き立つだけで答えが出ない。
「ほら、いいぞ」
小皿に取り分けられた焼き菓子を端から端まで眺めて、穴の一つ一つを見つめてしまう。
「卵を入れないと、こうまで違うものになるんですなぁ」
料理帳の感激した声に我に返った杏は指のような焼き菓子を手に取った。粉が指につくのがこそばゆく思えて、口に運ぶのも勿体ない。さくりと聞こえた音に顔を上げれば、克哉がたったひとくちで平らげていた。自分の分まで取られては敵わないと杏はショートブレッドをかじる。
歯は確かに固さを感じたのに、口の中でほろりとほどけた。舌で味わうほどに、甘みが広がり、
「思ったより、もろくなったな」
おいしい菓子に対して、克哉が唸った。
杏としては十分だと思えるが、追い求める味は克哉にしかわからない。和菓子を作る父も時折、頭を抱えていた。
首を傾げる料理長も杏と同じ考えだろう。ボウルを取り出してきて克哉の様子をうかがう。
「材料の割合を変えてみますか」
「いや、固さが欲しいから繋ぎがいるだろう。卵はいらないんだが」
苦しそうに顔を歪める克哉を見た杏はつい口をすべらせる。
「小麦を作った場所が、違う……とか」
克哉と料理長が押し黙った。
豆も産地が違えば、風味が違う。北で作られた青きな粉の方が甘いと言えば、食べ比べて不思議そうにしていた兄は納得して、父には頭を撫でられた。さすが杏ちゃんねと微笑んだ母の顔はもう朧げだ。
思い出にひたった杏が瞼をゆっくりと上げると、
身を引いて椅子から転び落ちそうになる杏の肩をあたたかい手がささえる。
「同じ小麦でも、ねばりが違うからな。よく気が付いたな、アン」
触れたのは一瞬だ。触れた熱を追いそうになった杏は途端に恥ずかしくなって、残りのショートブレッドをかじった。ほどけて溶けていく味と共に、克哉を笑顔に出来たのだとあたたかい気持ちが満ちていく。心の中で父に感謝した。
食べ切ってしまうのはもったいないと、ちまりちまりと食べていた杏は克哉の視線に気が付いた。明らかに食べ終わるのを待っている。本人に言われなくとも、今後の展開はなんとなく読めた。
鉄板に並ぶショートブレッドは圭輔のために作られたもの。克哉は本屋を営む圭輔の所へ、杏も連れて行こうと考えているはずだ。
いつだって一人でひょいひょいと行って従者に叱られるくせに思い付いたように連れ歩くのはやめてほしい。
本なんて高級なものをもらっても、返せるものなんて持ち合わせていない。身の丈以上のものを贈っては、むくわれない気持ちが周りにもバレてしまうではないか。
菓子作りだけが唯一、対等にできることだとしがみ付いているなんて、知る由もないだろう。
最後のひとくちをひと思いに口に入れた杏は、じとりと彼をねめつける。
「本なんて、いりませんよ」
悪戯がバレた時のような顔は、貸すだけならいいだろうと返した。
また甘やかそうとする克哉に、杏はほとほと疲れる。
「わたしが借りた本を茶番だとおっしゃっていたのに、私物として買うのですか」
「ミネから借りたやつだろう? 令嬢と書生の叶わない恋って、そりゃ叶うわけがないだろう」
胸に刺さるものがある杏はぐっと堪えた。叶わないとわかっているのだから、夢ぐらい見てもいいではないか。友人であるミネになら冗談めかして言える戯言も相手が克哉では口にするわけにはいかない。
察しの悪い克哉に対等に扱ってほしいと期待するのはお門違いだ。だからといって、杏に折れるつもりはなかった。
「おひとりで行ってください。なんでしたら、お付きの者を呼んで来ましょうか」
「どうした、そんなにツンとして。ほら、もうひとつやるから、そう言うな」
「どぉうぞ、おひとりで」
食べ物で釣られるなんてたまったもんではないと杏は突っぱねた。
首に手をやった克哉はまだ諦めていない様子だ。
その、と二人に割って入る人がいた。体を縮こませた料理長だ。
「圭輔様とお連れ様がいらっしゃいました」
克哉は何かを思い出したように、だから予定を空けていたのか、とひとりごちる。
どうしようもない主人を持つ杏は、圭輔に同情した。
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「なぁ、圭輔の知り合いに小麦に詳しいのはいないか。できたら、三浦商事がいいな」
「挨拶もなしに自分の要件を言う奴がいるか」
圭輔は苦い薬を飲んだような顔をした。普段とは違い、髪を頭の後ろにまとめ、幾分か精悍に見える顔が台無しだ。
こぼれ出る小さな笑い声に注目が集まる。
お茶を注いでいた杏も顔を上げた。
室内の視線を独り占めした圭輔の隣には、麗しい令嬢が座っていた。年若くも見えるが、瞳から垣間見える知性が歳をわからなくする。何処か読めない表情は静かに笑んでいた。
「グッモーニング、克哉?」
杏の耳は名前だけを拾って、固まってしまった。
涼しい顔の令嬢に向かって、これは失礼と克哉は可笑しそうに笑う。
「グッモーニング、フミ」
互いに名前を呼び捨てあっていると知った杏は倍驚いた。
場にいる誰もが驚かないので、普段通りのやりとりなのだろう。
「一緒に来ると伝えていただろう」
圭輔は柳眉をひそめた。何の用かはわからないが、フミの隣には明るい髪の異邦人も座っている。
大袈裟に肩をすくめて見せた克哉が口にした言葉は、流暢な外国語で、杏はさっぱりわからなかった。
四人だけで会話が進む。
内容な全くわからないが、飛び交う名前が心臓に悪い。
カップを落としそうになった杏は克哉に助けられた。物珍しそうな瞳が心配そうに訊ねてくるが、応えることはできない。狼狽えるなと杏は自分に言い聞かせ、カップと揃いの皿にのせられたショートブレッドを並べた。
「そうだ、試しに食べてみてくれ。あっちの味と違うだろう」
克哉に促されて、客人達が口に菓子を運ぶ。違う、と気付いたのは異邦人だけのようだ。
「なぁ、
「その話は後にしてくれ。確認しないとわからないだろう」
「フミがいるんだから、話は早いじゃないか」
冷ややかな言葉に、減らず口が返された。
青筋をたてた圭輔は引きつる口で唸る。
「調子に乗るなよ、この節操無し」
「乗ってないだろう。取引の話をしているだけじゃないか」
で、と応えを急かされた圭輔はしかめっ面で口に一文字を引いた。 何か言いたげな視線で隣のフミを盗み見る。
我関せずのフミは紅茶を楽しんでいた。
不思議そうに眺めていた克哉はああ、と呟き、圭輔に可哀想なものを見る目を向ける。
「お前だって名前で呼びたいなら、そう言えばいいじゃないか」
やはり、互いの名前を呼ぶのは親しい関係のものらしい。異邦人は名前で呼び合う文化なのかもしれないと抱いていた淡い希望は儚く散った。
圭輔は日頃の恨みを全部顔に出して克哉を睨む。
「……余計なことをほざくな」
「そんな口をきくなよ。訳のわからない小説を訳してること、ばらすぞ」
「訳がわからないのはお前の頭だ」
口喧嘩を澄ました顔でやり過ごしていた杏は、克哉に呆れた。
外国への窓口が開けた今、外国語を話せる人は確実に増えている。すなわち、克哉が翻訳をする必要はない。家業の手伝いで金なんていくらでもあるのだから、体を休めることを優先すべきだ。どうして、わざわざ翻訳をしたがるのか、杏にはわからなかった。
決着のつかない会話にまだ続くようだ。
圭輔は落ちてきた前髪をかき上げる。
「縁談が上手くまとまらないのも頷けるな」
「お前も似たようなもんだろ」
半眼を向ける克哉は全く懲りていない様子だ。
知らない内にまた縁談話があったのだと、杏の心は締め付けられた。
まだ言い合っている二人をよそに、令嬢は最後のひとくちを飲み終える。
「二人だけで楽しい会話をするなんて、よっぽど礼儀知らずでは?」
凍えるような正論に克哉も圭輔も姿勢を正した。
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