第2話 話の続き

「あの話、この話、全て続きができないね」


 私は母の河に溺れていた。

 戯れにスマートフォンを開き、いつも繋がっていた母のアイコンを眺める。

 ここを押すと、実家で横になったりテレビを見ていたりする母がまるで映写機のように鮮明だが過去が止まっていた。

 病院にいるので、糸電話の紙縒りの先が見えない。


「お母さんの意識が戻らないのは、致し方のないこと。どのような状態であれ、生きていることをありがたく思わなくてはならないけれども」


 もう夕飯を終えていた。

 何を食べたかなんて覚えていられない程日々が忙しない。

 樹はテレビが置かれている居間兼夫婦の寝室でストーブに当たるのが好きだ。

 先程まで、スマートフォンでゲームをしていたり動画を見て笑ったりしていた。

 ふと寂しくなったので、樹のいた所に目をやる。


「樹は自室に帰ったよ。ママ」


 息子は、佐祐さんと一緒にバラエティー番組でクイズを答えるのも好きだ。

 三人で部屋にいるとほかほかと賑やかになる。

 私に元気がないときでも、二人に美術の問題が出たよと教えられると、早押しで正答したりした。

 少し前向きになることもあるし、悪いことではない。


「俺の新しいパンツ、段々減って行くんだよな。当たり前だけど」


 もう九時か。

 佐祐さんが着替えやバスタオルを準備している。

 世話を焼かれるのを嫌うので、お茶でもビールでもお任せだ。

 お風呂に快適グッズを持ち込んで、小説を読んだりしているようだが、鶴の機織りシーンを覗いてはならなかった。

 仕事の疲れが取れないそうで、凡そ一時間程度入って来る。


「私も入ろうか」


 お誘いしても、いつも狭いからとのお断りだ。

 ああ、ご飯も済んだし、何もやる気はない。

 部屋に息がなくなってしまった。


「寂しいね。哀しいな」


 独り言ちてみた所で、空虚は変わらない。

 頭が空っぽになることはなく、寧ろ考えごとが多くなった。


「ひなは、簡単な漢字も読めなかった。これから苦労するよね」


 昨春まで、樹とひなは同じ中学校に通っていた。

 小学校のときから大好きだった運動会の話など、兄弟間に共通する楽しみがあったのではないかと思う。


「二人でがんばれたこともあったのかな」


 兄が進学すると、五月からひなは学校に怯えるようになった。

 正確には学校の担任やら人に対してだ。

 私より先に、ひなは担任に嫌味を言われたと、兄に電話で泣き付いたこともあった。

 その担任を人として、教師として、赦す気持ちを持てる程私は甘くはない。


「原因は一つではないにしても、素知らぬ顔をいつまでもしていられると思うな。子どもを守る人権もあると思う」


 独り言ちはぐつぐつと煮えたぎっていた。


「私も無力だとは思う。ひなに、ママが死んだ夢が怖かったと朝に泣きつかれることがある。そう思わせてしまっているのだよね」


 私自身、母として十分ではないことも認める。

 病院へは殆ど毎日のように通っているが、娘本人ではなく私が寝込んでしまったときもあった。

 ひなにとって母親失格だと自分を追い詰めている。

 そんな折、過日の母と若いママの私がリンクした。


「お母さん、私を松戸まつどの病院へ通わせたのは、大変だったのだろうね。脳波を取っている間、ひたすら待たなければならない。そして、帰りには薬局でお薬と一緒に飾りが二つついたヘアゴムを買ってくれましたね。私もひなに秋田あきたにいる頃、初めてイチゴさんので結ってあげましたよ。娘の喜びを嚙みしめたものです」


 今日は見たいテレビがあったようで、佐祐さんが十時丁度に戻って来た。


「お帰りなさい。パパ」


 佐祐さんが湯上りにビールを冷蔵庫から出しておつまみを広げる。

 缶ビール五百を二本、おつまみ、スマホ二台、イヤホン、小説、アニメーション番組或いは歴史番組で、佐祐さんの自己防衛が始まった。

 崖ができてしまった。

 私はまた、胸に込み上げるものがあり、俯く。

 テレビの音は騒音でしかない。

 ただでさえ母が手術をした日以来耳鳴りが激しく、一定の音は聞こえなくなってしまったのにだ。

 出る音と入る音が、風車かざぐるまのようにカラカラと入れ替わる。

 そんな時間が汗を砂時計にしたように過ぎ、もう夜の十二時近くなった。

 完全に虚だった。


 ◇◇◇


 急に夫につつかれた。

 巡っていたメリーゴーランドにアナウンスが響く。

 想い出の本棚に帰れとも指示が出た。

 私はスローモーションに佐祐さんに飛び付き、哀しいこと、苦しいこと、楽しみが剥奪されたこと、どうにもならないこと、堰を切って溢れ出す。

 

「もう、いい歳をして泣くな」


 夫にも頼れないと思っていたのに、慰めて貰った。

 誰にも頼れない苦しさはこのとき、一休みしてもいいのだと――。


「――いいのだって、分かったの」


 ◇◇◇


 話の続きは、母とはできない。

 でも、この人は聞いてくれるのだろうか。

 母の河を自ら溢れ出させたとき、パンドラの希望を掴んだ。

 私の感じ方次第で、夫の仕事で荒れた手に温もりがあると分かるのだろう。

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