第四話「スクリュードライバー」(1)

 彩人の名前を知って、数日経ったある夜のこと。二度目の演奏の準備を始めるために彩音がカウンターを出ようとしたとき、来客を告げるベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


「こんばんは」


 爽やかに挨拶を返しながら現れたのは彩人だった。そして、そのまま彩音のピアノを聴くためにいつもの席――隅のテーブルに着くかと思いきや、真っ直ぐにカウンターに向かってきた。


「――いらっしゃいませ。今夜は高槻ではなく、私のお酒を飲みにいらしたんですか?」


 彩音ではなく自分の前に立ったその姿に向けて優希が放った茶目っ気のある言葉に、彩人が楽しそうに笑って見せる。


「エウテルペのオーナーさん、ですよね?実は、折り入ってお願いがありまして」


「はい。初めてご挨拶差し上げます。オーナーの有馬です」


 何か面白いことが起きそうな予感を感じているのか、優希がいつになくにこやかなのを彩音は横目で見遣る。


「して、お願いとはなんでしょうか?」


「次の演奏、僕も彩音さんと一緒に弾いてもいいですか?」


 彩人のそのお願いに驚きで言葉も出ない彩音とは対照的に、優希は待ってましたと言わんばかりににやりと笑った。


「お客様のピアノの腕は確かですし、高槻がいいのであれば、店としては何も問題ございません」


「…よかった。ありがとうございます」


 そうして当然ながら、次に彩人の視線が向けられたのは彩音だった。彩人と目が合った瞬間、彩音の心臓は高鳴った。


「彩音さん。今日は、僕と連弾をしてみませんか?」


「れ、連弾の曲を練習もなしにいきなりなんて…」


 仄暗い店内でははっきり見えないと分かっていても、変に彩人を意識していることが知られてしまいそうで、彩音はそっと視線を逸らす。


 同時に、自分が彩人の足を引っ張るのではないかという不安が頭の中を占めていた。


「いつも弾いている曲で大丈夫ですよ。僕が好きなように弾きますから」


「でも…」


「彩音さんのお邪魔になるようなことはしません。僕はずっと、彩音さんのピアノを聴いてきたんです。信じてください」


「―――、」


 本当は、彩人との連弾に心惹かれている自分がいる。


 それよりも、彩人のピアノを聴きたい。その音にもっと触れたいとさえ、彩音はあの日から思っていて。


「…分かりました。よろしくお願いします」


「やった。ありがとうございます、彩音さん」


 嬉しそうな弾んだ彩人の声と笑顔に、彩音は自分の頬が緩むのが分かった。


 そして、やや慌ただしく二人でステージ袖に待機をして演奏の準備に入る。狭い場所で、今までで一番自然と近くなった距離が気になって、彩音は演奏の打ち合わせに集中しきれなかった。


 ――そうして時刻は、二十二時を告げる。


 ステージに立った二人の姿を見て、いつもとは違う光景に期待を寄せている雰囲気が客席には滲んでいた。


 ピアノの低音側に寄せられたトムソン椅子に彩音が、高音側に寄せられた仮置きの椅子に彩人が、それぞれ腰を下ろす。


 二人で演奏できることへの期待と成功するかどうかの不安が入り混じったまま、演奏を始める合図のために彩音が視線を向ける。それを受けた彩人は、彩音の感情をまるで見通しているかのように、温かな微笑みを見せた。


 それが自分を励ましているように見えて、彩音は少しだけ肩の力が抜けた。


 彩音が一曲目に選んだのは、定番の『Fly Me To The Moon』だ。曲の歌詞を思うと、まるで彩人に愛の告白をしているようにも取れることに気づき、心の中で苦笑する。それでも演奏を始める瞬間には、パチンとスイッチが切り替わったように、彩音の頭には一切の雑念が消え去っていた。


「―――」


 どこか哀愁を漂わせる彩音のピアノに、観客たちが聴き入る。そして、いつもと同じように自分の音に包まれる感覚を彩音が味わっているとき、そこに加わる新たな感覚が訪れた。


 彩人の音だった。


 初めは彩音の音に続くように現れ、次第にお互いの音が語り合っているかのように混ざり合う。自分の世界に現れた闖入者を不快に思うどころか、彩人の音は、彩音の世界に今までにない音色を与えてくれた。


 ――なんて気持ちいいんだろう。


 ふわりと浮かんだその感情は、その世界ごと彩音を包み込む。そうして普段なら感じることのない隣にある彩人の気配に、彩音は自分の心が満たされていくのが分かった。

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