第三話「カシスソーダ」(1)
エウテルペで二度目の演奏が終わった、二十二時半頃。それは、ある夜のことだった。
拍手を受け、ステージの上で一礼をした彩音に向けて、客席から一人の人影が静かに手を挙げた。
「とても心に響く演奏でした。もしリクエストができるのなら、ショパンのノクターン第二番を弾いてはもらえないだろうか?」
「っ、」
そのリクエストに、彩音の体は強張った。
ピアノバーにおいて、リクエストがかかることなど珍しいことではない。むしろ、リクエストがかかるのは、その腕前が認められたと言っても過言ではない。
声から察するに、手を挙げたのは熟年した男性客だろう。その客に応えたいと思う彩音の心とは裏腹に、その体は借り物のように思うように動かせなくなっていた。
「――オーナー、あれ…」
「ああ」
彩音の様子がおかしいことに気付いた司に耳打ちをされ、優希はその場を収めるために一歩踏み出す。そうして彩音を庇うように、観客の前へ躍り出ようとしたときだった。
ふらり。彩音が動いたことを認め、優希はその足を止めた。
今か今かと演奏を待ちわびる観客を前に、彩音は少し俯いたままトムソン椅子に座る。そうしてピアノと向き合えば、脳裏を駆け巡る何かを追い払うように、強く目を閉じた。
――あれからもう、五年も経ってる。
そして次に、鍵盤の上に両手を置いた。
――楽譜もまだちゃんと覚えてる。大丈夫。弾けるはず。
そうして右手で一音目を弾いた瞬間、彩音の世界が真っ白になった。
「―――、」
微動だにしなくなった彩音を見て、客席が何事かとざわつき始める。
それを見た優希は観客の前に、司は彩音の元に、それぞれが足を踏み出したときだった。二人よりも早く動いた人影が素早くステージに上がり、彩音の傍に駆け寄っていた。
その人影は、鍵盤の上に置かれたままの彩音の両手を包み込むように、自分の手を添える。
大きな手に包まれ、その温もりで我に返った彩音が思わず振り返れば、あの客が体ごと自分を包むように身を寄せて、微笑んでいた。
「――貴、方…」
明るいライトの下で見るその客は大きな黒縁めがねの奥で、その魅力的な目を甘く細めた。
「僕に任せて」
そのまま細い手を取り、その客はステージから彩音を下ろす。そうして優希と司が彼女に付いたことを見届けると、自分はピアノと向き合った。
――その客は、ひどく甘美な音を響かせた。
その音に彩音の心は震える。それと同じように観客も心を奪われ、演奏が終わるや否や、大きな拍手が店内に鳴り響いた。
――なんて艶やかな音を鳴らす人なんだろうか。
格の違いを見せつけられたような圧倒的なまでに見事な演奏に、彩音はフロアの隅で茫然としていた。そしてそんな彩音を見つけ、その客は迷いなく歩み寄り、その手を取った。
「カシスソーダを、作ってもらえませんか?」
今まで気にならなかったその客の仕草さえも色めいて見える。
「…かしこまりました」
彩音は手を振り払うでもなく。彩音はカウンターの中へ、その客は席へ着く間際に、二人の手は静かに離れた。
カウンターに戻った彩音に、優希と司の視線が一度投げられる。それでも何も言わずにいつも通りに働くその姿は、冷たいのではなく二人なりの優しさだと彩音には分かっていた。
そしてそんな場所だからこそ、彩音も安心してピアノを弾いていられるのだ。
「―――」
カクテルを作り始めると、自然と彩音の心は落ち着いた。そうして出来上がったカクテルをカウンターに置くと、その客はお礼の代わりに微笑みを見せた。
「今日のカクテルも美味しいです」
「ありがとうございます。……ピアノ、お好きなだけじゃなくて、とてもお上手なんですね」
話をどう切り出そうか考えた結果、思ったままを伝えるのが一番だと彩音は思った。
「彩音さんにそう言ってもらえると、すごく嬉しいな。ありがとうございます」
仄暗い店内にいるはずなのに、その客がはにかむように笑った表情が彩音には鮮明に見えた。
「でも僕は、あなたのピアノの方が好きです。情緒的で、苦しいくらいにあなたの感情に飲み込まれる」
「……クラシックが弾けない、情けないピアニストですけどね」
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