第二話「バイオレットフィズ」(1)

 あの不思議な客と初めて言葉を交わした日から数日後のある夜。いつものように演奏を終え、二十二時半を回った頃にカウンターへと戻った彩音の前に、その客は現れた。


「高槻さん、こんばんは」


「いらっしゃいませ」


 人懐っこそうに笑って席に着いたその客は、その顔には妙に不釣合いな、あの大きな黒縁めがねをまた掛けていた。


「今日はバイオレットフィズをいただけますか」


「かしこまりました」


 手早くカクテルを作る彩音の姿を、その客はまたじっと見つめる。そうして出来上がったカクテルを見て、やはり嬉しそうに目を細めるのだった。


「いただきます。――うん、美味しい」


「恐れ入ります」


「今日も素敵なピアノでしたね」


 当たり前のように始められた会話に、彩音は一瞬戸惑う。とはいえ、店員と話をしながらお酒を楽しむ客など珍しいことではない。そう思って、彩音は営業用の微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


「お礼に一杯、ご馳走させてもらえませんか?」


「え?」


 その客の、前回と全く同じと言ってもいい誘い文句に、彩音は思わず素に返ってしまった。そして次に思ったのは、この客がナンパ目的で自分に話しかけてきているのではないか、という疑惑である。


 それは、自分がモテるうんぬんという話ではなく、バーテンダーという職業柄、よく遭遇するというだけのことである。店の雰囲気、お酒の勢い、仄暗い照明。心理的に人を誘いやすい雰囲気が出ているのだろうというのが、彩音の見解だった。


「…お気持ちだけいただきます。ありがとうございます」


「そう言わずに。正直に言うと、その一杯を飲みながら、僕の話し相手になってほしいんです」


「………」


「あっ。あの、決してナンパとかそういうやましい気持ちがあるわけではなくて…いえ、高槻さんとお話したい気持ちがあるのは本当なんですが…」


 露骨ではないものの、訝しむ彩音の視線に気づいたその客は、慌てたように言葉を続ける。


「なんというか、僕、高槻さんのピアノに本当に惹かれてて…」


「………」


 そんな風に言われて、彩音の心が揺らがないはずがない。


 自分な好きなものを、他の誰かも好きだと言ってくれる。そう言えば『女性は共感されることを嬉しく思いやすい』というような話をどこかで聞いたな、と関係ないことを思い出している内に、目の前の客に対する彩音の警戒心は徐々に薄れていった。


「お客様にピアノとお酒を楽しんでもらえれば、私たちはそれだけで十分です。…ですが、今回はお客様のお気持ちとして一杯だけ、頂戴します」


「…よかった。受け取ってくれて、ありがとうございます」


 彩音に受け入れてもらえてことに安心して微笑んだのだろう。ふわっと緩んだその客の雰囲気に、彩音も釣られて薄っすら微笑んでしまった。


 ――案外、オーナーの言う通りなのかも?


 今まで男性の好きなタイプなど特にないと思っていたが、実はそうではないのかもしれない。それは、冗談半分で思ったことだった。


 そして、彩音が自分用のカクテルを仕上げれば、二人は前回と同じようにグラスを小さく上げて乾杯をする。

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