第一話「ミスティ」(2)

 大きな黒縁めがねの下にあるくるりとした大きな目と、どこか幼さを感じさせる顔立ち。顔だけ見れば、この仄暗い店内では、ともすれば女の子に見間違えられそうである。しかしながら、身体つきは華奢ながらもしっかりしていて、何よりもその長く角ばった指がその客が男性であることを示していた。


「素敵な音でした」


 先程の彩音の演奏を違う席で聴いていたのだろう。その客は、空になったグラスを彩音に渡すように、カウンターの上で少し押し出した。


「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」


 例えそれが挨拶のようなものであったとしても、自分の演奏を褒められるのは嬉しい。営業用の微笑みに本音の嬉しさを少し滲ませながら、彩音は小さく頭を下げた。


「次のお飲み物はいかがですか?」


「そうですね。では、――ミスティを」


「かしこまりました」


 その客のオーダーに、彩音は内心驚いていた。


 ミスティ。それはカクテルの名前であると同時に、彩音が演奏した最後の曲でもあったからだ。


 大昔とは言わないが、それなりに古い曲である。少なくとも自分より年下に見える目の前の客が音楽好きなのか、はたまたオーダーが偶然にも一致したのか、彩音は手早くカクテルを作りながら少しだけ思考を巡らせた。


「お待たせいたしました。ミスティです」


 出来上がったカクテルをカウンターに置けば、その客は嬉しそうに目を細める。そうして一口飲めば、ほうっと美味しそうな表情を零した。


「美味しいです」


「ありがとうございます」


「あなたのピアノに誘われて、思わずこれが飲みたくなってしまいました」


 どうやらこの客は、曲と同じ名前のカクテルがあることを知っていたらしい。


「音楽がお好きなんですね?」


「そうですね。音楽もですが、ピアノが好きで。あなたのピアノに通ずるものを感じて、いつも聴き入ってしまいます」


「…光栄です」


「そうだ。素敵なピアノのお礼に、一杯ご馳走させてもらえませんか?」


「お気遣いありがとうございます。ですが、ピアノを楽しんでいただくためのお店ですので、そのお言葉だけで十分です」


「実は僕、もう半年くらいここに通ってるんです。直接あなたに感想を伝えられた記念に、ぜひ受け取ってもらえませんか?」


「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて一杯だけ」


 まるで可愛くおねだりをしているような表情を見せる客に、彩音は内心で苦笑する。その言動に客とはいえどこか可愛い後輩のようにも思えてきて、彩音は素直に好意を受け取ることにした。そして自分用にアルコール度数の低い、甘めのカクテルを作る。


 そんな彩音の姿を、その客はじっと見つめていた。言葉通り、彩音のピアノを聴くために半年ほどエウテルペに通い続けたこの客は、彩音がいかにピアノを好きなのか、演奏を介して感じていた。それはこの客自身もピアノが好きで、触れることが多いからこそ伝わるシンパシーのようなものなのだろう。だからこそ、その想いの裏側にあるピアノに対する別の感情も、この客はなんとなく察していた。


「いただきます」


「こちらこそ」


 お互いのグラスを小さく掲げ、乾杯をする。そうして他の客のオーダーの合間に、二人は他愛ない会話を続けた。

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