天才ピアニストはカクテルで愛を囁く

秋乃 よなが

第一話「ミスティ」(1)

 人が行き交う大きな通りから一本路地に入り、少し先に進むと年季の入った煉瓦造りの建物が見えてくる。そこからひっそりと地下へと伸びる木製の階段を下りてベルが鳴る扉をくぐると、外の喧騒が嘘のように、しっとりとした時間が流れ出す場所があった。


 ピアノバー『エウテルペ』。


 店内は仄暗く、その存在を主張させるようにステージにあるグランドピアノだけが眩いライトに照らされている。こじんまりとした店内に設置されたカウンター席とテーブル席は、今夜もほぼ満席に近い状態だった。


 時刻は二十二時を告げようとしている。それは、エウテルペで二度目のピアノ演奏が始まる時間だ。


 ステージの袖から、一人の女性が現れる。


 彼女は照らされるライトにその切れ長の目を眩し気に細め、颯爽とした足取りでステージ中央のピアノへと向かう。そしてトムソン椅子に腰かけ鍵盤の上に手を乗せれば、その時を待ちわびていたかのように店内の雰囲気が変わった。


 ある客は、彼女の奏でる音をとても優雅だと言った。また、ある客は、秘めた情熱が迸るようだと言った。


 彼女の涼やかな視線の先でその指先は情緒的に、ときに叙情的に鍵盤の上を踊る。その姿と音色に客はうっとりと聴き惚れ、三十分間の演奏は、あっという間に終わりを告げた。


 ピアノバーとしては十分と言えるほどにしっかりとした拍手を受け、彼女は客に一礼をして見せると、現れたときと同じようにステージの袖へと帰っていく。そうして店内で囁き合うように客たちの談笑が始まったところで、次に彼女が姿を現したのは、バーカウンターの中だった。


「おつかれさん」


 白シャツに黒のパンツとソムリエエプロンを身に着け、見るからにエウテルペのオーナーと思わしき男――有馬ありま 優希ゆうきは軽く労いの言葉を掛けた。


「ありがとうございます。…二曲目、ちょっと失敗しちゃいました」


 先程までステージ上にいた人物とは同じとは思えない、いかにも『普通』といった雰囲気で彼女は言葉を返す。よく見ればその格好は優希と同じものを身に着けている彼女――高槻たかつき 彩音あやねは、エウテルペでバーテンダー兼ピアニストを務めていた。


「前に聴いたときとなんか違うなって思ってたら、あれ、失敗してたのか」


「あ、気づきました?アレンジで誤魔化したつもりだったんだけどな」


「まあ、俺はいつもお前の演奏を聴いてるからな」


「ですね」


「――オーダーです。六番テーブルに、ジントニック二つお願いします」


 優希と話しながらバーテンダーの業務に戻る準備をしている彩音に、オーダーの声がかかる。視線を上げれば長めの前髪から覗く目と視線が合い、彩音はそのまま了解の旨を伝えた。


 どこか厭世的な雰囲気を漂わせるこの青年は、木ノ下きのした つかさと言い、エウテルペでギャルソンとして働く大学生だ。


 優希、彩音、司の三人で切り盛りされるピアノバー『エウテルペ』は、今夜も賑わいを見せていた。


 準備を終えた彩音が、慣れた手付きでカクテルを作る。優希はお役御免と言った様子で、カウンターに座る馴染み客と談笑していた。


「司くん、これお願い」


「はい」


 できたばかりのカクテルを司に渡せば、喉の渇きを覚えた自分のためにミネラルウォーターをグラスに注ぐ。そうして何口か飲んだところで、新たにカウンターに座った客の気配に、彩音は視線を上げた。


「いらっしゃいませ」


 ――私とは真逆の、大きな目だな。


 それが、その客に対する彩音の第一印象だった。

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