第29話 腹を見せた蝉の声
温泉から上がった俺は、ぼーっとマッサージチェアに座っていた。
肩甲骨の内側を抉られるようなチェアの動きは、気持ちが良いかと問われると疑問が残ったが、しかし癖になる感覚だ。
「おー、浅野か。お前、その歳じゃ宝の持ち腐れだ、マッサージチェア変わってくれ。おっさんが有効活用してやる」
柳先生が軽く手を上げながら、こちらに近づいてくる。
「これ、お金かかるんですよ。教師が生徒からカツアゲしないで下さい」
「助け合いの精神だよ、教育的だろ?」
先生は尻で俺を押しのけ、まだ動いているマッサージチェアに乗ろうとする。
「止めなさいよ、大人げない」
俺は少し抵抗するが、大人の力には敵わない。
最終的にマッサージチェアを明け渡す結果となってしまった。
「まあ、そう怒るなよ。あとでアイス奢ってやるから」
「…………」
俺は一番高いアイスを要求しようと心に決め、近くのソファに腰掛ける。
「それにしても、先生はいつも部活に顔を出さないのに、何故合宿に同伴して下さったんですか?」
先生はマッサージチェアに背中を叩かれながら、声を振動させて答える。
「おぉ、俺は野球部の副顧問も兼任でなあぁぁ。今日はぁぁぁ、試合の日だったんだが、サボる口実がががが、欲しかったんだよよぉおぉ」
「……もっとしっかりした方が良いんじゃないですか?」
「おっさんはしっかりしてても煙たがられるだけだからなななぁあぁ、適当なくらいが良いんだ」
「なるほど」
ふざけた大人だ。
けれどその言葉に納得感はあった。
きっと人との関わりというものは、薄くなっていく一方なのだ。
人生を重ねれば譲れないものは増えていき、本心と本心が摩擦を生むようになっていく。
それでも人と関わりたい大衆は、嘘臭く、当たり障りなく、適当に人間関係をこなすのだろう。
それが嫌なら分かり合うことを諦めて、のらりくらりと孤独に生きる他ないのだ。
俺は先生の言葉に小さな諦念を感じ、自分の未来を幻視したような気分になる。
「……ほら」
マッサージチェアが動きを止め、先生は財布から千円札を取り出した。
「アイス代だ、デカイ箱のアイスでも買って食え。じゃあな」
「ありがとうございます」
手をヒラヒラと振り、先生は怠そうに歩き去っていく。
俺はその姿を見送りながら、どんなアイスを買うべきかと思考を巡らせていた。
+++++
「あ、やっと見つけた! アンタ外にいたのね、どおりで見つからな……何それ」
「デカいアイスだ。コンビニで買った」
俺は石段に座ったまま、視線を中庭から平川に向けて返事をする。
「……旅行先で買うもんじゃないでしょ。というかそういうケースに入ってるアイス、コンビニにも売ってるのね。スーパーだけだと思ってたわ」
平川が半眼で見つめる中、俺はコンビニでもらった小さなスプーンをアイスに突き立てた。
しかし、一度に削りとれる量は微々たるもので、かれこれ十分ほどこのアイスと格闘している。
俺はスプーンにくっついたアイスをうんざりと見つめ、惰性で口に運んだ。
「別に俺は、アイスが好きではない」
「じゃあ何で買ったのよ」
「先生から千円もらって、少しテンションが上がった」
スプーンでアイスを擦る。
口に運ぶ。
冷たくて甘い。
「はあ……」
「そんな顔してまで食べるくらいなら冷凍庫にしまっときなさいよ」
「だが平川、一度口を付けた食べ物を途中でしまうと、何だか汚く思えてこないか? あれが俺にはどうにも嫌で仕方がない。まるで誰かの食べ残しを食べているような気持になるのだ。というか事実、自分の食べ残しを食べているのに等しい行為だろう?」
「じゃあなんで小皿に分けて食べなかったのよ……」
平川は呆れたように俺を見る。
しかし、そうしなかった理由は明確にあったため、俺は背筋を伸ばして返事をした。
「デカいアイスを、ケースから直に食べてみたかった」
「あっそ。でもアンタ、もう食べらんないんでしょ? 私が食べてあげるから、スプーン貸しなさいよ」
そう言うや否や平川は俺の横に座り、スプーンを奪ってアイスに突き立てた。
しかし、やはりコンビニの小さなプラスプーンでは雀の涙ほどしかアイスを掬えず、彼女はそれを微妙な顔で見つめていた。
「食わんのか?」
「うっさい!」
パクッと、平川がスプーンを口に含む。
そのときにふと、間接キスだ、と思った。
彼女の顔は真っ赤だった。
「ここ、外だから暑くてアイスを食べるのにちょうど良いわね……」
平川は誤魔化すようにそう言うと、続けて二度三度とスプーンをアイスに突き立てる。
そして「アンタは私がいないと駄目なんだから」と、おまじないのように呟きながら、彼女は何度も何度もアイスを口に運んだ。
平川の奉仕精神は何処から来るものなのか、何にせよ難儀な性質だ。
さりとてそれが彼女の在り方なのだろう。まあ良い。
なんとはなしに彼女がアイスを食う様を見ていたら、チラと横目で見返された。
「アンタさ……なんで突然、文芸部辞めるなんて言い出したのよ」
「別に、部員同士で仲良し小好しというわけでも無かった。平川だって、俺達は友達などではないと言っていたじゃあないか。辞めるのに大した理由も必要あるまい」
「っ……なにそれ、怒ってんの?」
平川は不機嫌そうな口調で、しかしどこか不安げに言う。
「怒っている? 何に対してだ?」
「私がアンタのこと友達じゃないって言ったことよ。でも、あれは別に、口が——」
「怒ってなどいないさ。俺は友達ですらないあの距離感が、嘘臭くなく好きだった」
平川が続けようとする言葉を知って、その上で俺は遮った。
プライドを守り摩擦を生まない会話方法は窮屈だが、しかし平川相手に白々しく諦めきった言葉を吐くのは嫌だったから。
「…………」
平川は睨むようにして俺を見る。
けれども彼女は何も言わなかった。
そのまま俺も黙っていると、平川は再びアイスを食べ始める。
「アンタさ……私と中学一緒だったって知ってた?」
「いや」
「そ。まあ、そうよね」
平川はそう言いながらも、少しだけ落ち込んだように下を向く。
「私ね、全部知ってたの。モザイクアートのときのこと」
飛び出してきたモザイクアートという単語に俺は思わず顔を顰めた。
アレは忘れたくても忘れられない苦い記憶だ。
俺が大衆に抗うことを止めた原因であり、周囲に認められることを諦めた節目。
だから俺は軽々しく飛び出た「全部知ってる」という言葉に引っかかった。
「それは、どういう意味だ?」
「……アンタがモザイクアートをほとんど全部やったこと、知ってたの。私も生徒会だったから」
「そうか」
「でも、私、何もできなかった。みんなの勘違いを正すことも、アンタにあのとき、見てたよって言うことも」
「…………」
罪滅ぼし。
高校に入ってから俺に何かと構っていたのは、そんな理由か。
「ごめんなさい、あのとき何もできなくて。でも——」
平川は俯いていた顔を上げ、俺の顔を真っすぐに見つめる。
「私、今なら全部やってあげられる。アンタが全部一人でできるのは知ってるけど、あの時を境にやらなくなってしまった分、全部私がやるから……もう一人にしないから、だからお願い。辞めないでよ」
俺は平川を半眼で見つめた。
ごちゃごちゃと御託を並べていたが、要するに自分を独りにしないでくれと、罪悪感の捨て場所でいてくれと、それが彼女の本心だ。
自分が落胆していることを自覚した。
モザイクアートの件は、俺の経験で、俺の人生で、俺の諦念だ。
だが、それは平川にとってどうでも良いことなのだろう。
自分ならどうにでもできたと、そう思えてしまうことなのだろう。
あの日、社会を切り捨て、社会に変えられてなるものかと鬱屈を募らせた俺は、きっと彼女にとって助けてあげなければならない人間なのだ。
そんな俺を助けることで、彼女は自らの価値を認識できる。
でも別に、怒りは無い。俺も同じだから。
名倉さんの本心と向き合おうとしたとき、俺も動機は罪悪感だった。
結局人は、自分を通してしか人を考えられない傲慢な生き物なのだ。
「……俺が文芸部を辞めると決めた理由、最後に伝えておくよ」
「は? え、さ、最後って……」
「夏休みに色々あって、理解したんだ。俺のような内面に全てを積み上げて来た人間は、人と深く関われば関わるほど、他者との本質的に相いれない部分を見つけてしまう。しかし、それが相手の本質である以上、関わり続ける限り無視はできない……そこを無視して社会性で適当に誤魔化せる人間だったなら、モザイクアートの件をなんとかできたんだろうな」
俺は小さく自嘲気味に嗤う。
「だが俺は違う。俺は相いれない人間と適当に仲の良いふりをしたくない。自分から関わろうとして、相手と自分が相いれないことに気が付くのも嫌だ」
平川はぎゅっと拳を握りしめる。
そして、縋るように俺を見た。
「そんな、でも私はっ! 私はアンタのこと分かってあげられるから、私だけはアンタのために色々してあげられるから!」
違う。
俺は平川を静かに見つめた。
もしも俺が他人と事務的でない関係を続けられるとしたら、それはどうやっても離れることができない人間を相手にしたときだ。
故に俺は、自分という拒絶できないただ一人を相手に生きていく。
だがしかし、この考えはきっと伝わないのだろう。
だから俺は、ただ短く呟いた。
「そうじゃないんだよ、平川」
彼女は目を見開き、何かを堪えるように唇を噛む。
「……っ、そう」
話は終わった。
俺はそっと立ち上がり、静かにその場を後にする。
他者と相いれない、上手く人間関係もできない、それで人を傷つけている。
さりとてこの生き方を変えることだけは、どうにもできそうにない。
平川が俺と関わろうとしていた理由を、受け入れられなかった。
俺は薄情なのだろうか?
廊下の隅で死んだ蝉を見て、俺は少しだけ顔を顰めた。
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