第23話 人にされてイヤなことをしてはいけません

「あの、浅野くん……」


 名倉さんが俺の袖を掴み、小さく引いてくる。


「ああ」


 俺は小さく答え、袖を引かれるまま無心で路地裏に入った。

 夕暮れ時、黒々とした影に覆われる路地裏には誰もいない。

 ただ、そのどんよりと狭い空間にはカラスの声だけが響いていた。


「え、へへ」


 名倉さんは俺の表情を窺うような眼で、だらしなく笑いながら首元に手を伸ばしてくる。

 ぎゅう、と力を込められた。

 頭に血が上る、きっと俺の顔は赤くなっているのだろう。


 首を絞められるのには慣れた。

 苦痛には慣れない。

 首を絞める理由を聞いても、返ってくるのは「分からない」。

 心に恐怖と苦痛が蓄積されていくのを、客観的に認識している自分がいた。


 限界ギリギリで、パッと手は離される。

 その後で俺は、決まって無様に呼吸を繰り返すのだ。


「ぐ、げほっ、っは、ぁ、はぁ、はっ……っふ」


 じっくりと、観察するような眼で名倉さんは俺を見つめてくる。


「もう、気は済んだかね?」


「あ、う、うん、ありがとう。ごめんね?」


「……別に構わんさ」


 名倉さんは俺の言葉を聞くと、嬉しそうに手を握ってきた。

 俺は手の震えを悟られないよう最大限注意しながら、彼女の手を握り返す。


 そうして我々は再び、路地裏から街中に舞い戻るのだ。


 この極めて難解な関係性は、ここ数日間ずっと続けられている。

 しかし、偉ぶって芝居がかった態度を取るのも、そろそろ限界というのが正直なところだ。


 とはいえこれが俺の求めたもの。

 名倉さんの本心を曝け出した状態である。


 実際、彼女はここ数日で酷く安心したような表情を見せるようになった。

 そんなに多くは無いが、彼女から何かをお願いされたり、意見を述べられたりすることも増えた。


 これでようやく、彼女に対し無自覚な抑圧を強いてきたクラスの連中と、自分は違うのだと思うことができる。

 だが、問題は俺が彼女の本心を聞いた先。それを考えていなかったことだ。


 今まで本心を言えなかった人の本心をようやく聞けて、それからどうする?


 俺は今まで、他人の主張に対しひたすら「諦め」という選択肢を選んできた。

 社会は変えられないと諦め、自らも変わってやるものかと心を固めていた。


 であれば、今回も俺は変わらずにいるか?

 だとしたら、首を絞めてくるような奴は距離を置いて終わりだ。

 だが俺には、ずっと名倉さんが隠し通してきた本心を暴いた責任があるのだった。


 何より今の彼女は幸せそうで、過去の自分もそうなりたかったのではないかと思ってしまう。その姿を自分の拒絶で壊したくないと、そう思ってしまうのだ。


 ……結局考えは纏まらず、様々な欲求とプライドが矛盾して、ただただ反吐が出そうな気分である。


 自らの首を優しく撫でた。


 今の俺が、名倉さんを見るだけで足が竦んでいることなど認めたくは無かった。



 +++++



 私はずっと、全部が嘘のように思えていました。

 人と、それらが集まってできている社会というものが、信じられませんでした。


 お母さんは、私を叩きました。

 沢山の虫を叩いて潰した私を、ダメな子と怒りながら叩きました。

 どうやら世の中には虫を叩いて良いときと、いけないとき。人を叩いて良いときと、いけないとき。そんな感じの分類があるようでした。

 私には、その違いが分かりませんでした。


 お母さんは、勉強をしている私を褒めました。

 勉強だけをひたすら続けていたら、気持ち悪いと言われました。

 だから、ずっとボンヤリしていたら、また気持ち悪いと言われました。

 先生や、学校のお友達にも言われました。

 何がダメだったのか、何が気持ち悪かったのか、私には分かりませんでした。


 私にそれを教えてくれたのは、先生でした。

 その先生が言うには、周囲の顔色ばかり窺って子どもらしくないことが気持ち悪いらしいのです。


 だから私は、子どもらしくて、気持ち悪くない、クラスのお友達をマネしました。

 それでもお母さんの目は誤魔化せませんでしたが、大抵の人は私を褒めてくれるようになりました。

 本来ならば褒められたときは嬉しくならないといけないのですが、口角を上げて目を細めるだけでも、問題は無いようでした。


 だんだん、嬉しいとはどういうことか分からなくなっていきました。


 お母さんの目は誤魔化せませんでした。


 お父さんがお母さんと離婚しました。私が中学二年生のときのことでした。


 親が父だけになった子どもはどう振舞うのが正しいのか分かりませんでしたが、お父さんがすぐに再婚してくれたので助かりました。


 新しいお母さんは気持ち悪い私を知らないし、お父さんは何も喋らないので、私は正しい家族をできそうでした。


 あゆみちゃんの目は誤魔化せませんでした。


「……ねえ、浅野くん?」


 私はそっと、眠っている彼の首に手を添えます。

 添えるだけです。

 安いホテルですからカーテンは薄く、月光が彼の寝顔を見せてくれます。


 実のところ、最近の私はよく自分の本心について考えています。

 あれだけ考えるのが嫌だったはずなのに、浅野くんが私を飼ってくれているのだと思うと、色々なことを考えられるのです。

 だって私がどれだけ間違えても、責任は全て浅野くんが負ってくれるのですから。


 私はだんだん、自分のことが分かってきました。

 私は今まで、自分が物語の悪人のように残忍で間違った存在だから、弱い者イジメが好きなのだと思っていました。自分は人が苦しむ姿や、傷つく姿が好きなのだと思っていました。


 でもどうやら、違うみたいです。


 私はただ、許されたいだけでした。

 気持ち悪くてダメなことをしても、怒らないで話を聞いてほしかったのです。

 ぬいぐるみも浅野くんも私を怒らないと知っているけれど、それでも不安になったときに、私が悪いことをしても相手は許してくれるのか確認したくなってしまうのです。


 これが私の本心です。


「……ねえ、浅野くん?」


 私は、寝ている浅野くんの首を絞めました。

 両手の親指を、ぎゅうっと喉に押し付けたのです。


「っ……かっ、は、ふっ」


 浅野くんは混乱したように頭を揺すり、ゆっくりと目を開きます。

 私と目が合いました。

 浅野くんは目を細めました。私も目を細めて笑い返します。


 彼の顔がすぐに赤くなってきました。

 喉が手の中で蠢きます。とても苦しそうです。

 人の首を絞めるのは悪いことです。


 浅野くんの瞳には涙が浮かんでいました。

 じっと、彼の様子を眺めます。けれども皆が怒る前に出す、あの緊張するような感じはありません。


 私はそっと、触れたときと同じように、手を首から離しました。

 浅野くんはいつものように咳込んだあとで、私の顔を見つめます。


「あの、ごめんね?」


「気にすることは無い」


 私が謝ると、決まって浅野くんはどうでも良いような顔をしながら許してくれます。

 これが嬉しいのです。実際のところ、私はこれが聞きたいから謝っているようなものでした。


 私はとても悪い人間です。

 でも浅野くんが怒らず許してくれるから、私はいずれ自分を好きになれるような気がしています。


「ねえ、浅野くん」


「……何かな」


「実は私ね、最近ちょっと考えられるようになったの。自分の本心のこと」


「……あぁ」


 浅野くんは布団に寝転がったまま、小さな声で返事をします。


「浅野くんがご主人様だから、考えられるの。まだ分かんないことも沢山あるけど、ほんの少しだけね、これが自分の好きなことかなっていうのも見つかってきたよ? 首を絞めるのみたいなやつ以外にも……石とか、空とか、見るの。これはたぶん結構、普通っぽい、よね?」


 浅野くんは、小さく頭を揺らして首肯します。

 予想通り、石や空を見るのは気持ち悪くないことみたいです。

 これが本当に、私の好きなことだったら良いなと思います。

 石や空を見るときの、あの小さな気持ちが「嬉しい」だったら良いなと思います。


「…………」


 気が付くと、浅野くんは再び眠っていました。

 私はそっと立ち上がり、窓辺へ行きます。カーテンを開け、そして夜空を見上げました。


 月と雲と、いくつかの星があります。


「……ん」


 それだけでした。

 三日前の夜行バスで見た、浅野くんが車窓を眺めているときに覗き見たあの夜空は、確かにあの小さな気持ちが沸き上がったのに。


 私は空を見るのが好きでは無かったのでしょうか?

 何が以前と違うのか考えながら、私はもう寝ようと浅野くんが寝ている隣のベッドに近づきます。


「あ……」


 気が付きました。


「ねえ、浅野くん?」


 彼は静かに寝息を立てています。

 何故だか今は、その事実に安心しました。


「私は浅野くんのことが……好きみたい、です」


 心臓がドキドキとうるさくて、それは何度も見てきた世の中の類型と一致して、だから私の持つ本心は正しいのだと思いました。


 ……嬉しいと、思いました。

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