第17話 ごめんね、いいよ、仲直り?
夏休みから一週間近く勉学というものに触れてこなかったため、錆び付いた脳が数式の羅列を否定する。
致し方あるまい、教科書から順を追って紐解くとするか。
プリント、教科書、ノートを並べ、だらだらとシャープペンシルを走らせる。
クーラーのゴウゴウという低い音と、女子小学生の遊ぶゲームの音が耳に心地よい。
なんだか、ようやく夏休みが始まったかのようだった。
そのまま無言で課題を進める。
調子を取り戻してきたこともあり、順調に数式の解を埋めていたのだが、途中どうにも計算が合わない問題にあたる。
二度、三度と解きなおすが上手くいかない。
頭を掻き悩ませていると、ちょこちょこと女子小学生が肩越しに顔を覗かせてくる。
ふむふむ等と言いながらプリントを見つめているが、ただゲームに飽きただけだろう。
「ねぇねぇ、私が教えてやろっか?」
「分かるというのであれば是非ともお願いしたいものだが」
「いいよ」
女子小学生は俺の背に寄り掛り「えーっとねえ」などと分かったように呟く。
「どうだ、分かりそうかね?」
「答えは~、一億!」
そう言いながら女子小学生はシャープペンを手に取って、回答欄に一億と書き込む。
そのいかにも小学生らしい挙動に、俺の口角は少しばかり上がった。
「なら、答え合わせをするか」
「うん」
女子小学生は不遜に笑う。
俺が答えを見せてやると、女子小学生は目を丸くした。
「えー、ズルじゃん。答え三個もあるとかダメでしょ! なんで、どれか一個書けば良いってこと?」
「いや、三つとも書いたら正解。ただ、一つだけでも部分点が貰える場合もある」
「……ふーん、なんかキモ。ごちゃごちゃうるさい感じ」
随分とストイックな感想だ。しかし、言われてみれば俺としても同意したくなってくる意見である。
小学生の頃は、確かに解は一つだったのだ。何時の間に俺は複数解を当然のものとして受け入れていたのか?
そう、複数解など「なんかキモい」だけである。
やる気を失った俺はバタリと後ろに倒れ込み、シャープペンとプリントを放り出した。
そもそも何だこの紙は? ミミズがのたくったような黒い線が並んでいるだけの癖に『数学』などと偉ぶるなよ。
「あ……」
ちょうど名倉さんが部屋に入って来た。
俺が全てを放り出したタイミングである。
名倉さんには女子小学生と一緒に課題を進めているよう言われていたため、じわじわと気まずさが広がった。
女子小学生は、気が付くとゲームに戻っている。
「……いや」
言い訳をしようと二度三度口を開閉させたが、そのうちに言い訳をする意味もよく分からなくなってしまった。
手持無沙汰になった俺は、じっと名倉さんを見つめる。
名倉さんは目を逸らし、そっと部屋から退出した。
どうやら俺は、対応を間違えたらしかった。
しかし、これは俺に非があるのであろうか?
そもそも俺は、少し前まで課題を進めていたのだ。無論、名倉さんからすれば俺がいかにもダラダラと怠けていたように見えたかもしれない。とはいえ、無言で何も聞かずに部屋から退出するのは少々早とちりが過ぎるというものだ。
うん、俺は悪くない。強いて言うなら間が悪い。
……悲しきかな、名倉さんとの溝は深まるばかりである。
こうなってくると、そもそも俺にとっての名倉さんとは何なのだとなってくる。
思えば、俺はそのことについて深く考えることを避けていたようであった。
最初こそ、俺は名倉さんの白々しい態度や見えてこない本音が不愉快で、自分は大衆と違うのだと認めさせるべく行動していた。
そして今は、周囲との関わりを諦めている名倉さんに自分を重ね、話を聞こうとしている。或いは、彼女の自分と違う部分を知ろうとして本音を聞き出そうとしている……という風に自分を理解していたが、どちらもしっくりきていないというのが正直なところだ。
いや、別にそれらが嘘というわけではない。
そういう感情は俺の中に存在する。しかしそれは本質と異なるというか、つまり、俺は単純に……名倉さんと親しくしたい。
彼女の言った「周囲に合わせていれば怒られることは無い」という言葉が、ずっと引っかかっているのだ。それがあまりにも正しすぎて、だというのに納得がいかないから。
俺は今まで、名倉さんの本心を引き出そうとしていたが、結局はあの本心を裏返したような笑顔を放置して、女子小学生と一緒に家出した。
改めて考えてみて思う。
俺は結局、その場その場で適当に手の平を返す大衆と変わらない。
今にも泣きだしそうな子供がいるからといって、何かを押し隠して笑みを浮かべる人間を放置することなど、外ならぬ俺がしてはならなかった。
「はあ……」
ゴロリとうつぶせになり鬱屈を募らせる。すると、背にずっしりとした圧力が加わった。
「君、俺を座布団扱いするのは止めたまえ」
背の上から「やだ」と素気無く断られる。
「何故俺の背に乗るのだ」
「べつに、どうでも良いじゃん」
「いや、どうでも良くはないが……まあ、良いか」
俺のしょぼくれた反応を見て、女子小学生は小さく鼻を鳴らす。
そして、背の上で軽く跳ねることで俺の肋骨を軋ませ始めた。
「あぁ~」
思わず漏れた呻き声を聞き、女子小学生は満足そうに笑う。
そうやってしばらく遊んでいると、彼女は再び口を開いた。
「……話、聞いたげる」
「何?」
いつもとは少し違ったその声音に、俺は思わず聞き返す。
「前、言ったじゃん。私だけがお前の話、聞いてあげるって」
ギクリとする。
そうだ、俺とて忘れていたわけではない。しかしそれは、できれば目を逸らしていたい現実だった。
俺はずっと昔に、話を聞いてもらうことなど諦めていたはずなのだ。
というか本当のところ、諦めたという感覚すら無かった。
今までの人生で俺がどれだけ自分の本心を話そうとも、一番信じて欲しいときに誰も俺を信じなかった。俺がどれだけ他人の本心に近づこうとしても、誰も俺の本心に近づこうとはしてこなかった。
だから、現実とはそういうものなのだと理解していた。
そんな折に、女子小学生が俺の孤独を指摘したのだ。
だからあのとき、俺は彼女から防犯ブザーを受け取ってしまった。
それがペットの証だと知りながら。
「……ねえ、話したくないなら、別に話さなくても良いけど」
女子小学生は俺の背に、だらりとその身を預けてくる。
じわじわと伝わってくる少し高い体温が、まるで俺という存在を融解させるようだった。
このままでは駄目にされる。
歳が二桁になってから幾年かしか経っていない子供に、大人の俺が負けてしまう。
この先にあるのは依存と破滅だ、そのくらいは分かる。
しかし、その二つが往々にして選ばれ続けるのは、そこへ至る道が酷く甘美に思えるからだ。
要するに今、俺は誰かに話を聞いてほしかった。
名倉さんに対して己がしてしまったことを他者に懺悔し、何も解決していない状態で心だけを軽くしてしまいたかった。
思想や思考など、他者とベタベタすることで幸せになれる人間には無用の長物なのである。
「あー、あの、だな……」
「ん」
「いや、何と言うか、うーん……」
歯切れの悪い俺を見て、女子小学生は小さく笑った。
「お前、人の話聞くのは得意なのに、話すのヘタクソなんだ」
「それに関しては力及ばず申し訳ないと思っている。しかし、何を言って何を言わないのか、どうにも決めかねてしまってね」
「どうせ私しか言う相手いないんだし、そのうち全部私に言うことになるでしょ」
「かといって、今すぐ思いの丈を全て晒すのは違うだろう」
「今しゃべんなくていいって意味。ばーか」
彼女はそう言うと、俺の背骨を肘でゴリゴリして遊び始めた。
その様子は俺に気を遣わせないようにしているようで、だから余計に分からなくなる。
女子小学生が俺に求めているのは、閉じた二人きりの関係なのか? それとも互いに自立し支え合う理解者なのか?
そのどちらにせよ、俺には務まら無さそうだというのが所感である。
ふと、ドアの隙間からこちらを覗く瞳に気が付いた。
俺はそれを見つめながら、心の中で「ごめんなさい」と呟く。
何に対する謝罪なのかは、自分でも分かっていなかった。
人間関係に乏しい俺は、小学生の頃にやらされた『ごめんね』と『いいよ』しか知らなかったから。
あのとき、俺が謝らなければならない理由を先生が説明してくれていたら、今頃名倉さんに「ごめんなさい」と言えていたのだろうか? 名倉さんとの関係を、やり直せていたのだろうか?
表面上の謝罪と許しで壊れた人間関係をやり直せる理由が、俺にはまだ分からない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます