第15話 おやすみ

「いただきます」


 名倉さんの号令。

 俺は家出をしてから二日ぶりに名倉邸へと帰って来ていた。

 そしてその場には女子小学生も座っている。俺が食事の味の改善を彼女に伝えたからだ。


 果たして、家出と称し俺の家で一日だらだらしてきた女子小学生はごきげんであった。

 彼女は早速カレーを食べんとスプーンを手に取っている。


 対する名倉さんは、緊張した面持ちで様子を窺うように女子小学生を見つめていた。


「……じろじろこっち見ないで」


「あ、ご、ごめんね?」


 二人の関係は相変わらずぎこちないが、このカレーは前回の作り置き。度を越して不味いということは有り得まい。

 俺は何食わぬ顔でカレーを一口食べる。


「うん」


 チラリと女子小学生を見ると、丁度カレーを口に運んだところだった。


「……まあ、美味しいんじゃない?」


 女子小学生は少しばかり恥ずかしそうに、もごもごとそう言った。


「良かった。じゃあ、明日からは一緒にご飯食べてくれる?」


 言質を取るように確認する名倉さんは笑顔だった。いつも通りの。

 その事実が、俺にはやはり不気味に思える。


 ずっと一人で食事をしていた女子小学生が、ようやく一緒に食べても良いという反応をしたのだ。だというのに「良かった」の一言。

 いや、感情の機微について、とやかく言うなど下品な事この上ないと理解はしているが、しかし……


 女子小学生が、明日からは一緒に食べても良いという旨の返事をすると、名倉さんは何食わぬ顔で自分の食事に戻った。「おいしいね~」などと言いながら。


 カチャカチャという食器の音と、時折名倉さんの発する独り言とも会話の切り口ともつかない言葉が、場の静寂を強調した。


 ……俺は、ここで何をしたいのだろう?

 名倉さんの本心が知りたい、女子小学生だけが俺の話を聞いてくれる、俺だけが女子小学生の話を聞く。

 ここ数日で言った言葉を並べてみると、それは随分嘘臭く思えた。


 別に俺は、名倉さんや女子小学生のために何かしようというわけでは無いのだ。

 ただ俺のやりたいようにやっていて、だがそれで良いのだろうか?


 名倉さんの本心とか、女子小学生のペットとか、それらは酷く心の内に踏み込んだ結果で、だから俺はその責任として彼女らの仲を取り持つような……要するに正しいことをしなければならないという強迫観念に苛まれている。


 けれど、それが分かってなお、これ以上踏み込むと決定的に間違えてしまいそうで、俺はそれがどうにも怖かった。


 無言のままカレーを食べ終える。


 俺は女子小学生のペットになっても良いのか、名倉さんの本心に触れる権利はあるのか、それがどうにも分からないまま、ぎこちない夕食は終わりを告げた。



+++++



「ね、あゆみちゃんが一緒にご飯食べてくれるようになったの、浅野くんのおかげだよ! ありがと~」


 数日ぶりの名倉さんの部屋、ぬいぐるみに埋もれる俺の前に彼女は正座していた。


「これでさ、お父さんとお母さんが新婚旅行から帰ってきたら、もっと家族らしくできるよ!」


 嬉しそうに微笑むその表情は、どこか嘘臭い。

 二日間の家出を経て、一緒に読書をして作ったゆるい時間がどこかへ行ってしまったようだった。


 ……まあ、当然か。家出する直前の名倉さんのあの笑顔。見た目通りの意味ではないと知っていながら、俺は女子小学生と共に家を出た。

 それはきっと、彼女にとって酷い裏切りに思えたはずだ。


 俺はぎこちない表情のまま、彼女の白々しい話に耳を澄ませた。

 居心地は悪い。けれども今更本心を話せなど、言えるはずも無かった。


 名倉さんは言葉を続けながら、おもむろにぬいぐるみを取る。

 そして、それをぎゅうっと抱きしめた。体が潰れ、頭が歪むほどに、強く。強く。


 名倉さんは笑顔のまま話し続ける。

 ぬいぐるみはひしゃげ潰れ続ける。


「…………」


 気が付くと、名倉さんは無言になっていた。

 俺と彼女の目と目が合う。時計の針がチクタクと静かに進んでいた。


「あのね、浅野くん——」


 名倉さんはそう小さく切り出したが、言葉は続かない。

 そしてタイムリミットは訪れた、部屋の扉が第三者によって開かれたからだ。


「ねえ、今日は私もここで寝るから」


 女子小学生が俺と名倉さんをジロリと見ながらそう言った。


「ぁ……うん! じゃあ、あゆみちゃんのお布団準備しないとだね~」


 名倉さんはぬいぐるみをサッと戻し、そそくさと逃げるように部屋から出て行った。

 俺はそんな彼女を見やり、視線を女子小学生に移す。


「……どういう心境の変化かね?」


「見張りに来た、お前が名倉花香にほだされないか」


「それは構わんが、あまり険悪になるのは止めてくれよ?」


「でも、名倉花香が悪いんじゃん……」


 女子小学生はそう言うと、わざとらしく唇を尖らせて俺にくっついてくる。


「アイツの料理、お前がどうにかするまで、ずぅっと改善しなかったんだよ? 私がご飯食べようとしないのが自分のせいかも、なんて考えない。そもそもアイツ、私に優しくしてるみたいな顔して最初から私に興味ないんだもん」


 女子小学生はぬいぐるみを掻き分け、俺の胸に顔を埋める。


「……大人って、そんなんばっか」


 くぐもった声で彼女はそう締めくくった。


 こと名倉さんの評価に関しては、否定できないというのが正直なところだ。

 自分は姉であるという責任感もあってか、どうにも彼女の女子小学生に対する接し方には理想の家族を演じているような印象が強い。これは、理想的な道徳観念に真っ向から歯向かう女子小学生と酷く相性が悪かった。とはいえ、俺がどうこう言うものでもあるまい。


 故にただ諦め、俺は女子小学生の体重に押されるがまま寝転がった。


「どうすれば、他人は自分を見ようとしてくれるのだろうね……」


「ウソつきのバカになんか、見られなくて良いじゃん。お前は私だけが見てあげるって言ったでしょ?」


「……わん」


 俺は何も言いたくなくて、ただ吠えた。


「ばーか」


 女子小学生は可笑しそうに小さく呟き、俺の服を噛む。

 そのまま、くちゃくちゃと唾液で服が汚される様を眺めていたら、名倉さんが帰って来た。


「はい、これ! あゆみちゃんのお布団~って、わあ……何してるの?」


「喰われてる」


「仲良しさんだね~」


 雑なまとめ方だ。この女子小学生がライオンだったときも、名倉さんはこうやって微笑ましそうに布団敷きを続けるのだろうか? 続けないと言い切れないのが、彼女の恐ろしさである。


「じゃあ、あゆみちゃんはこっちで寝てね? 浅野くんはこっち~」


 布団を敷き終わった名倉さんは、何食わぬ顔で自分のベッドに俺を誘う。


「いや、ぇ、いや……いや、気づかい痛み入るが、今まで通りぬいぐるみの山で寝させてもらうよ」


 流石の俺も少しばかり動揺して声が裏返った。一生の不覚である。


「お前は私と一緒に寝るの」


 次は女子小学生が俺をご所望だ。なんともまあ俺も偉くなったものである。


「随分急だな。クーラーがあるとはいえ、こんな真夏にわざわざ身を寄せ合う必要もあるまい……」


「バカ! 一緒に寝るの!」


 女子小学生に服ごと腹を噛まれる。これではどちらが愛玩動物か分かったものではない。


「寝るから噛まないでくれ」


 俺がのそりと立ち上がって布団に移動しようとすると、名倉さんが小さく「え……」と呟いた。まさか、自分が断られて女子小学生が断られなかったことに異議申し立てがあるというのか?

 俺が名倉さんの顔を見ると、視線はそっと逸らされた。流石に同年代との添い寝は子供との添い寝と意味合いが異なるため、異議申し立てられても返答に窮するから助かった。


「……じゃあ、電気消すね」


 パッと部屋は暗くなり、カーテン越しの弱い薄明かりだけが並べられたぬいぐるみを照らす。その場が急に静かになったように思え、俺は一抹の物悲しさを覚えた。


 右腕に伝わる体温のせいか、女子小学生が近い。逆に、ベッドの上にいるはずの名倉さんは下からだと姿さえ見えず、随分遠くにいるかのように思えた。


 夜だからか? 罪悪感でもあったのか?

 俺と名倉さんとのその距離が、どうにもこうにも嫌だった。


 ……違う、罪悪感も夜も関係ない。

 俺が嫌なのは、今の自分が『皆』の側にいて、名倉さんが『皆』じゃない側にいることだ。


「名倉さん、おやすみ」


 俺は小さく、夜の定型文を口にした。

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