僕の勇者のいちばん長い日 運命の夜と最後の魔王

氷室凛

僕の勇者のいちばん長い日 運命の夜と最後の魔王

第0話 開戦

新芽

 穏やかな日だった。


 暖かな陽光が差し込む部屋の中、机に置かれた正方形の紙の前にひとりの少年が座っていた。


 正方形の紙には三重の円が引かれ、一番大きな円の内側には魔法文字が書かれている。日常生活では使わない特別な文字。


 その紙に手をかざす少年の表情はボサボサの灰色の髪に隠れてよく見えない。けれど伸ばした両手は細かく震えていて。それだけで彼が緊張しているのがよくわかった。


 ――そう。少年は人生初の魔法を発動させようとしている。


 シリウス魔法教会の布教により「魔法」の存在は常識となっているが、それを使えるのは一部の才能ある者だけだ。そして常識になっていようがなんだろうが、この世に生を受けて八年の少年には関係なかった。


 「先生」に魔法を習い始めて早数ヶ月、やっと実践にまでたどり着いたのだ。絶対に成功させてやる。


 少年は呪文を唱えながら、紙に描かれた模様に沿って魔法陣を形成していった。


 魔法陣は魔法を発動するために必要な前段階ではあるが、「魔力」で捕集した「マナ」で形成しなければ意味がない。紙に書かれたこれは、魔法陣を形成するためのいわば補助線のようなものだった。


 そして呪文も魔法陣に書かれた文字同様、日常生活では使わない言語でできている。その意味は魔法を深く学んだ者にしかわからない。


 少年の言葉に合わせ、ゆっくりと、しかし確実にマナが集まっていく。その証拠に模様が端から薄っすらと緑色に輝いていく。


 数分後、模様はすべて緑色の光となった。魔法陣が完成したのだ。少年は小さく息をついてからまた気を引き締め直した。


 魔法陣はあくまで魔法を発動するための準備。「魔法の発動」、ここが一番難しいのだ。


植物魔法プラント


 「始動語」を唱え、完成した魔法陣へゆっくりと魔力を流し込む。少なすぎると魔法が発動しないし、多すぎると魔法陣が壊れてしまう。

 適量の魔力を適切な速度で流し込むと、魔法陣はそれに応えるように一層輝いた。


 そして――中心からするりと緑の葉が伸びた。少年の爪の先ほどの大きさのそれはするりするりと二枚に増え、にょっきりと小さな茎が伸びた。


 ……それだけ。それで終わり。


 派手でも煌びやかでもない魔法。


 けれど少年は顔を輝かせて勢いよく振り返った。その瞳は、たったいま彼が作った新芽と同じような緑色で。差し込む柔らかな陽光の中、その目はきらきらと眩しい光を放っていた。


「やった! できた! ねえ見た先生、成功したよ!」


 その拍子に緑色の魔法陣は同じ色の光の粒となって消え去り、魔法でできた小さな芽も同様に消え去った。少年の集中力が切れ、魔法を維持できなくなったのだ。


「あ……。でも、先生見てたよな! 成功したって!」


 悲しそうな顔をしたのは一瞬で、少年は必死に「先生」に同意を求める。先生は笑いながら頷いた。


「うむ。ちゃんと見ていたよ。おめでとう、イル。やはり才能があるな」


 先生と呼ばれた人物は、中年の、どこにでもいそうな平凡な見た目の男性だった。彼の髪も少年と同じような灰色だったが、それはもしかしたら年のせいかもしれない。少し伸びたあごひげを撫でつけながらニコニコと少年の頭を撫でた。


「へへ、やった。ついに俺も魔法が使えるように……! これで俺も魔法使いだ! な、な、これで俺も村の奴らに認めてもらえるよな。ジャックもニールも、歳が近い奴らはまだみんな魔法使えないんだぜ。俺が一番乗りだ!!」


「うむ、もちろんだ。これで君も友達に認めてもらえるだろう。存分に自慢しなさい。ただし私のことは内緒で、な」


 先生の手が止まり、顔が曇る。語ったことが本心ではないかのように。けれど少年はそれに気づかず、元気よく椅子から飛び降りた。


「じゃ、俺帰るよ! 早く村のみんなに自慢するんだ! ありがとう先生、また今度!」


「ああ、待ちなさい」


 玄関に駆け寄り外へ飛び出そうとして、少年は足を止めた。おかしい、扉が開かない。何度も閂をいじり押したり引いたりするが、どうにも開かない。昨日までは普通だったのに。彼は緑色の瞳を曇らせ振り返った。


「なあ先生、扉が開かないよー? 壊れてるんだ、早く直さないと」


「そんなことはない。それよりイル、もう少しゆっくりしていきなさい。初めて魔法が使えたんだ、お祝いしよう。そろそろかと思って、贈り物プレゼントも用意したんだぞ」


 机にはたくさんのお菓子が積まれていた。前線・・近くにあるこの村で甘いものは貴重だ。先生がお茶を入れるいい匂いもする。少年は違和感を忘れ、椅子に駆け戻った。


「そういえばさー。先生、教会・・の人なんだろ? 俺知ってるぜ、魔法教えていいのは教会の人だけだって! なのになんで先生のことはみんなに言っちゃいけないんだ?」


 この国で「教会」といえば、それは「シリウス魔法教会」のことだ。最初の魔法使い・シリウスを教祖とし、魔法と精霊を崇める大きな宗教。


 少年もこの国の人間の例に漏れずその信徒だ。紅茶の入った器を両手で抱えふうふうと冷ましながら聞く。先生は自分で淹れたそれを口に含み、「アチチ」と顔をしかめた。


「うーむ……先生はな、教会の人とはちょっと仲が悪いんだ。もしここにいるってバレたら殴り合いの喧嘩になるかもしれない。もし君が誰かに言ったら、その誰かが教会の人に言っちゃうかもしれないだろ? だから誰にも秘密にしていておくれ」


「喧嘩してるの? なんで? 意地張ってないで、ごめんなさいして仲直りしないとダメだよ?」


 灰色の髪を揺らし、お菓子の屑をまき散らしながら得意顔で言う。

 先生はまた顔をしかめたが、今度は紅茶のせいではなさそうだった。「子どもの正論は耳が痛い……」と独りごちる。


「先生もそうしたいんだがなあ。大人の喧嘩はそう簡単じゃないんだよ。時には喧嘩の理由さえ歪められてしまったりする。君も大人になればわかるさ。……嫌でも、な」


 最後の一言を小さな声で言って、先生は立ち上がった。少年は「ふーん……?」と首を傾げた。先生の言ったことは、まだ彼には難しかった。


 ふたりは――主に少年が――あっという間にお菓子を食べつくし、皿はもう空になっていた。先生はそれを片付けると、今度は片手に小包を持ってきた。空色の紙で包まれたそれを少年に手渡す。


「初めての魔法、おめでとう。贈り物だ。これから君を待ち受ける困難には遠く及ばないが、ささやかな祝福だよ。開けてみなさい」


「やった、ありがとう! へへ、なんだろ」


 少年は目を見て礼を言う。そして包み紙を破り開けた。


「これは……?」


 わくわくしていた表情が困惑に変わる。


 中から出てきたのは細長い布だった。ただしただの布ではなく、中央に金属の板が縫い留められている。金属の片面には何か文字が彫り込まれているが少年には読めなかった。そしてその金属には、ふたつの突起があった。少年の指二本分くらいの長さで中は空洞になっている。


「これはな、額当てだ。君のそれを、隠すための」


 先生は自分の額を指した。彼の額は皺しかない普通のものだが――つられて触った、少年の額はそうではなかった。


 ボサボサの長い前髪に隠れた彼の額。その、眉毛と生え際のちょうど真ん中くらい。


 そこには二本の小さな突起があった。――まるで角のような。


 生まれた時からこうだったわけではない。村のみんなと同じ、普通の額だったはずだ。


 けれど数ヶ月前――先生と出会う少し前に、何か・・があったのだ。その何か・・が何だったのかはわからない。思い出せないのだ。けれど他の大人たちの話だと、自分はひと月ほど行方不明になっていたらしい。


 そして先生と出会ったこの森で見つかった時には、「こう」なっていた。


 命に別状はないらしい。生活にも支障はない。


 けれど額から二本の角が生えたその姿は、まるで異形のようで。人々から恐れ嫌われる「魔人」を彷彿とさせるようで――。


 彼が村から孤立するのは一瞬だった。友人は自分の姿を見ると逃げ出すようになった。家族は普通に接そうとしてくれているが、その裏には恐怖があるのが透けて見えた。あんなに仲が良かった妹さえも距離を置き始めたように感じる。


 居場所がなくなった少年は森へ頻繁に出入りするようになった。一度行方不明になった場所だ、当然周囲からは止められたが少年は聞かなかった。


 そしてある日、先生と出会い魔法を習うようになったのだ。魔法を使えるようになればまたみんなと話せるかもしれないという希望を持って。


「ほれ、貸してみなさい。つけてあげよう。こっちを向いて目を瞑って」


 言われた通り、顔を上げて目を瞑る。金属の突起が自分の角にぴたりとはまった。頭の後ろで布を結ぶ先生の気配を感じる。「む、意外と難しいな……」と呟くのが聞こえて笑ってしまった。この先生は穏やかでなんでもできそうな雰囲気をしているが、けっこうドジで不器用なのだ。


「……よし、いいぞ。目を開けて。どうだ?」


 巻き込まれて結ばれた髪が痛い。けれど少年はニコリと笑った。


「うん、ぴったりだ! ありがとう先生!」


 金属の上から額を触る。この額当てをしていればきっと、自分の額から角が生えてるなんて思う人はいないだろう。ただの飾りだと思われて終わるはずだ。


「よかった。あの角はさすがに目立つからな。それにこの額当てには特別な魔法が掛けてある。決して人前で外してはいけないよ。……さて」


 先生は突然外を向いた。つられて少年もそちらを見るが、何も異常はない。


「? どうしたの、先生?」


「時間だ」


 少年が首を傾げる。と同時に、


 ドゴオォォン!!!


 凄まじい轟音が響き地面が揺れる。少年は椅子から転げ落ちた。咄嗟に先生がそれを受け止める。衝撃でビリビリと空気が震えていた。


「な、なんだ!? 村の方からだ!」


 振動で舌を噛みそうになる。それでも叫ばずにはいられなかった。先生の腕の中で少年はもがく。


「先生、放して! 村が、村が!! 俺、戻らなきゃ!」


「待ちなさい! いま行けば巻き込まれる!」


 暴れる少年を先生は抑え込んだ。しばらくして振動が収まると、先生はやっと力を緩めた。すかさず飛び出そうとする少年の頭に彼は手を置いた。


「先生……?」


「困難から逃れられない君に祈りを。天にまします精霊たちよ、しがない友の願いを聞きたまえ。この者が絡み巻き付き固まった因果を正す光になるように。ここでの忌まわしき記憶を忘れ、曲がりなく前へと進めるように」


「なあ、なに言ってんだ先生。放して! いんがってなんだよ!? 俺、ここのこと忘れたりなんかしねえよ!?」


 まだ子どもで、今日が初めて魔法が成功した日だとしても――少年も魔法使いの端くれだ。先生の言葉に合わせてザワザワとマナがうごめくのを感じていた。呪文でもない、普通に聞き取れるただの言葉なのに。


 胸騒ぎがする。けれど先生を問いただすほどの言葉も大人の腕から逃れるほどの力もなかった。バタバタと暴れることしかできなかった。


 祈りが終わった先生は、ぽん、と少年の頭を軽くたたいた。


「行きなさい、イル。そしてお別れだ。もうここへ来てはいけないよ。私のことは恨んで構わない。けれどせめて、かわいそうなあの子のことは許してやってほしい。……はは、お願いできるような立場でもないけどね」


 少年は先生の顔を見た。それは笑っていたけれど――どこか悲しそうな陰が落ちていた。


 どういうこと?

 ねえ、あの子って?

 なんでそんな顔するの??


 彼に聞きたいことはたくさんあったが、今は村の方が気がかりだった。


「先生、俺、また来るからね!? 先生のこと忘れたりしないからね!?」


 ちらちらと先生を振り返りながら玄関に駆け寄る。彼はもう、少年を止めなかった。微笑みながら小さな背中を眺めていた。


 少年は扉に手をかけ、最後にじっと先生を見つめた。


 ふたりは数秒見つめ合った。


「……じゃあ、また今度な!」


 何かを断ち切るように、少年は勢いよく扉を開けた。先ほどはびくともしなかったそれがなめらかに開いたことにも気づかず、彼はそのまま駆け出した。


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