第1章

第7話 異世界研修①

 短命種の人間族と、エルフや獣人に代表される長命種の亜人達が平和に暮らすエリクシル王国――その東端を他国と分かつ境界線は、鬱蒼と茂る樹海の中に存在した。隣国のデクシア帝国による領土拡大が驚異となっている近年においてもこの地域が平穏なのは、人が足を踏み入れるのを躊躇するほどの険しさに起因する。

 危険な動植物も多く、腕に覚えがある者でも寄り付かない僻地だ。しかし森の中には今もなお人が住み続ける大きな館がポツンと存在していた。派手さこそないものの、欄干や柱に細やかな装飾彫りが施された外観は、由緒ある名家の系譜を感じさせる。豪邸を囲む庭園も手入れが行き届いており、季節の花々が美しく咲き乱れる様子はここが薄暗い森の中心部であることを忘れさせるだろう。

 外界から途絶されたこの館に住まうのは、魔法の才で名を馳せる領主と、彼に付き従う1人の侍女メイドだけだ。世捨て人のような生活を送る邸宅の主は、今日も夜明けと同時に2階の私室から顔を覗かせる。


「あの少女達が来てからもう1ヶ月か……時間の流れを早く感じたのは久方ぶりだな」


 銀髪のエルフ男性――魔術師セロ=トレンティアは、少し前に珍しい異能を持つ少女達を館へ受け入れた。治癒魔法で領民の怪我を治して貰った礼として、衣食住を提供するためだ。

 偶然とも言える出会いではあったが、それまで書斎に籠って魔法の研究に勤しむだけであったセロの生活は一変した。大人顔負けの言動とは裏腹に子供達は知識の偏りが酷く、社会で自立した生活ができるレベルでは無かったため、彼が教鞭を取らざるを得なかったのである。特に世間一般で常識とされる基本的な教養……とりわけ世界の地理、金銭の価値といった内容に関しては無知同然だった。今では領主としての仕事よりも、教師の真似事をする時間の方が多くなっている。


「フッ……最低限の教育すら受けていないのかと最初は眩暈めまいすらしたものだが、あの呑み込みの早さは教える側としても気持ちが良い。この前まで厄介ごとばかりで滅入っていたのが嘘のようだ。もしや、これが子の成長に喜びを見出す親の気持ちというものか……?」


 そんな苦笑交じりの独り言に応じるが如く、室内に扉をノックする音が響いた。侍女が朝食を運んできたのだ。壁掛け時計を見て時刻通りであることを確認した彼は、「入れ」とだけ答える。


「おはようございます。ご主人様、朝食をお持ちました」


 古風なメイド服に身を包んだ侍女は、深く一礼してから朝食をセッティングし始めた。程なくして焼き上がったばかりのブレッドの香りが部屋に漂う。食事が載せられたプレートには他にも温かいスープや燻製肉をソテーしたもの、朝摘みされた葉野菜と果物が盛られた小皿も揃っている。細身ながらも2m近い長身を誇る彼には少なすぎる量にも思えるが、それで十分であることを侍女は把握済みだ。


「リエーレ、今日の午後は引き続きメルの訓練を頼む。俺はココノアを指導してやるつもりだ」


 侍女が引いた椅子にセロはゆっくりと腰を降ろした。ダークブラウンのスラックスに白いドレスシャツを合わせ、上品なチャコールグレーのジャケットを羽織ったその姿は、瀟洒な青年実業家を思わせる。


「かしこまりました。お二人にはそのようにお伝えしておきます」


 リエーレと呼ばれた女性――褐色の肌に長い耳を持つダークエルフは、主人に再び頭を下げてから部屋を立ち去った。豊満なバストと女性らしい魅力的なラインを描くヒップが目を惹くが、それと対照的に腰や脚は引き締まっており、歩き方にも無駄が無い。

 後頭部で結わえられた艷やかな黒髪は臀部に届く程の長さを持つ一方で、彼女が階段を降りようとも決して腰の幅以上に揺れることはなかった。武術を少しでも齧った者なら、その歩き方が洗練されたものである事はすぐに分かるだろう。

 調理室を経由し、次にリエーレが向かったのは館の1階にある来客用の個室だ。これまで滅多に使われる事がなかったその部屋は、獣人とエルフの少女に無償で提供されている。


「失礼しますメル様、ココノア様。ご朝食をお持ちしました」


「おはようございます、リエーレさん! 今日も美味しいご飯を作っていただいて、ありがとうございます♪」


 リエーレの元へ華やかなピンク髪の少女が駆け寄ってきた。館の主が与えた衣服を身に着けた彼女は、最初に館を訪れた時とは随分と異なり、良家の子女に見えなくもない。リエーレは微笑んで会釈し、備え付けのテーブルへ食事を並べ始めた。


「あ、食器を並べるのをお手伝いしますね!」


「助かります、メル様。ところでココノア様はどちらへ……?」


「ココノアちゃんはお顔を洗いに行ってるので、もう少しすれば来るかと!」


 八重歯を見せて笑う少女は元々、奴隷と見紛うくらいに見すぼらしい格好であったものの、今ではこの館に相応しい品位ある身なりとなっている。人喰い蜘蛛アラクネの糸で紡がれた極上のシルク――それを惜しげもなく使った淡い紫色のドレスは、フリルを多用した可愛らしいデザインが特徴だ。ドレスと言ってもスカートは短めで、脇や肘といった関節部周りも開放した構造であるため、激しい動きにも対応できる。したがって獣人族が持つ高い身体能力を阻害することもない。


「おはよう、リエーレ。今日も朝から豪華ね」


「おはようございます、ココノア様」


 メルに少し遅れ、テーブルへやってきたのはエルフ族の少女だ。リエーレとは異なり彼女の肌は雪のように白い。ダークエルフとエルフは元々同じ種族であったが、異なる環境下で代を重ねた結果、肌や髪の色に大きな違いを生じた。現に黒髪のリエーレに対し、ココノアの髪は亜麻色に染まっている。ただしエルフ族の中でも、この色は希少種に分類されるだろう。エルフ族の多くは金髪か銀髪、もしくはそれに近い色の者ばかりだからだ。


「今日もセロはうちに付き合ってくれるって言ってた?」


「ええ、そのように聞いております」


「それなら午後はずっと魔法の特訓か。うちらの面倒見てくれるのは有難いけど、領主としての仕事が大丈夫なのか心配になるわね。空いた時間で処理してるから問題ないとか言ってたけど、ホントなの?」


「ふふっ、ご心配は無用です。ココノア様が来られてからというもの、主は生き生きとしておりますよ。恐らく、初めての当たりにする魔法に興味が尽きないのでしょう」


「ふーん、そういうものなんだ」


 不思議そうな表情を浮かべるココノアの前に、料理を盛り付けた皿が次々と置かれていく。品目はセロに出されたものと同じだが、育ち盛りという事もあって量は倍以上あった。メル用の皿に至っては見ただけで食欲が満たせそうな程の山盛り具合である。


「スープはまだ熱いので、火傷などしないようにお気をつけください」


「わぁ、美味しそうです! いただきます!」

「いただきます」


 そう言って食事の前に手を合わせる2人の所作は、多様な文化が入り混じる王国内でも珍しいものだ。以前、不思議に思ったリエーレがその意味を尋ねてみたところ、少女達から食べ物となった生き物へ感謝を捧げることを示す儀式だと説明があった。そういう考え方もあるのかと驚いた記憶がふと蘇り、頬をかすかに緩める。

 それからしばらくの間、リエーレは子供用の小さなスプーンやフォークがせわしなく往復する光景を注意深く見守った。遥かに年下の子供とはいえ、主が正式に招いた客人である以上、失礼があってはならない。特に獣人族はエルフ族と異なる味覚を持つと言われているため、味加減が難しい。彼女は三角の形をした獣耳をぴょこぴょこと揺らすメルへ視線を移した。


「サラダの味は如何でしょうか。庭の畑に実っていた野菜が食べ頃だったので使ってみたものの、エルフ族と違って獣人族の方は菜食を好まれないとも聞いた事があります。お口に合わなければ別のものをご用意いたしますが……」


「いえいえ、大丈夫です! このお野菜、瑞々みずみずしくて凄く美味しいですよ! 栄養バランスもとれてますし、何より食物繊維のおかげで便通もバッチリですよね、ココノアちゃん」


「便通って……それ、小学生みたいな見た目の幼女から出てくるセリフとは思えないんだけど。ま、美味しくて栄養があるものを毎日摂れるってのは、確かに有り難いかもね」


「そう仰って頂けるとメイド冥利に尽きます。おかわりもありますので、ごうぞごゆっくり召し上がってください」


 屈託のない笑顔で感想を述べるメルに、リエーレは微笑んで礼を述べる。館の主人は出される料理にいちいち感想など言わなかったので、いつしか子供達の反応が彼女の日常を彩る楽しみの1つになっていた。

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