18 吊り橋効果

「それでは、本日のプロジェクト会議は、これで終了といたします。お疲れ様でした」

 イケコンが宣言するのと同時に、吉岡君と私はカバンとコートを持って立ち上がり、そのまま、ささっと会議室の後ろのドアから出る。


「お疲れ様。あー吉岡君、ちょっといいかな。吉岡君! あ、あれ? もういなくなってる?」

 会議室の中から、高槻部長の大きな声が聞こえてきたが、聞こえないフリをして小走りでエレベーターホールまで行き、ちょうど開いたドアに飛び込んだ。


「危なかったね」

「ああ。あらかじめ準備しておいて正解」


 今日は、デジタルラボ・アンリミテッドの展示に行くので、会議が終わった瞬間に部屋を出ようと、ランチの時に吉岡君と相談して決めていた。展示の終了時間が早いこともあるけれど、なんと言っても、高槻部長に捕まらないため。

 案の定、高槻部長は何か仕事を振りたそうな声だったから、危なかった。何事もリスク管理が大事よね。


 吉岡君は仕事用のケータイを出して、電源をオフにした。

「これで、連絡も来ない」

「おめでと。奴隷の鎖を断ち切って、これで自由人だね」


 まだ四時半だから、通常の退勤時間には早い。けれど、二人ともフレックスタイム制度を使って申請を出してあるから、今日は堂々と帰れる。

 フレックスタイムは、十時半から四時半までのコアタイムさえ働いていれば、あとは都合に合わせて調整できる制度。入社してから、まだ一度も使ったことがなかったけれど、こういう時こそ使わなきゃ。


「こんな早い時間に会社を出てくるなんて、すごい解放感だね」

「だな。外回りの営業と違って、俺たち外勤とか無いからな」


 デジタルラボ・アンリミテッドの展示は、週末は九時までやっているけれど、平日は六時半で閉館してしまう。入場は閉館一時間前に締め切られてしまうから、大急ぎで移動しないといけなかった。

 本社ビルからJRの改札まで地下街を小走りで行き、そこから延々エスカレーターを歩いて上って、電車に飛び乗った。パンツスーツにスニーカーだから、移動するのは楽だけど、こんなに長い距離を走って来ると、コートは着ていなくても、さすがに暑くて汗ばんできた。電車の中は暖房が効いていて、もわっとする。


「新橋から、ゆりかもめ?」

「そう。駅に着くのは五時十分だから、ギリギリかな」

「向こうの駅から、また走る?」

「そこまでしなくても、大丈夫だと思う」


 もし、これがイケコンだったら、あの個人タクシーを呼んで、座ったまま行ってたんだろうな。比べちゃいけないけど、そこが吉岡君との差かな……


***


「すごい! 壁全体が言葉になって流れてる」

「うわ、何だ、この水の流れみたいなの。足元が浮いてる」


 デジタルラボ・アンリミテッドの展示は、噂に聞いていた通り、びっくりするような体験だった。上下左右、あらゆる方向に音と光があふれる中を、歩いたり、段差を飛び越したり、全身でアートを感じる。

 一緒に回っている人と少しでも離れたら、はぐれて見つからなくなる、とクチコミで書かれていたけど、本当にそんな感じ。


「あ、なんだこれ」

 吉岡君は、壁を泳いでいる魚の群れを見ている。自分も、その群れから離れて近づいて来た魚を目で追って歩いているうちに、ふと違和感を感じた。

 いつの間にか、吉岡君がいなくなっている。


「あ、あれ、吉岡君?」

 今のいままで、横を歩いていたはずなのに、一瞬で消えた?

 他のお客さんの迷惑にならないように、小声で名前を呼びながら、いま来たルートを逆向きに歩いてみた。

「吉岡君?」


 暗くてよく見えなかったけれど、部屋の区切りの壁のようになっているところがあり、そこを曲がると、目の前にキョロキョロしている吉岡君がいた。壁一枚をはさんでいただけなのに、はぐれると本当に見つからなくなるんだ。

「あ、遠藤さん! よかった。見つかった」

「ごめんね、先に行っちゃってた」


 ぐいっと近づいてきて、手を握られた。

「はぐれないように、手をつないでいこう」


「え、手を……つないで?」

「ちょっとでも離れると見つからなくなるって、紹介サイトに書いてあったけど、本当に一瞬で見失うことがわかったから」


 暗くてよく見えないけど、吉岡君は真剣な顔で言っているようだった。私を見失って、よっぽどあわてたんだろうな。

 握られている手は、がっしりと逞しかった。イケコンの方が見た目は背が高いけれど、手は吉岡君の方が大きい気がする。


「……わかった。そうしようか」

 またはぐれちゃったら困るし、ね。

 握られている手のひらの感覚を意識すると、なんだか、また体の奥の方がきゅんとしてきた。いけない、いけない。意識しないように。


「じゃ、こっち行くよ」

「うん」


 足元が暗い中を歩いていくと、急に床が明るく、でも、ずっと深い谷間のようになった。びっくりして、つないだ手をぎゅっと握ってしまう。踏み外すと落っこちてしまいそうな錯覚と、つないだ手の感覚で、ドキドキが止まらない。


 ちょっと。まずいよここ。

 吉岡君、狙ってここに連れて来た?


 会場の出口にどうにかたどり着いた時には、閉館時間ちょうどになっていた。散々、迷いながら、不思議な映像の刺激の中を歩き回っていたので、たった一時間でも、ヘトヘトになっている。

 その間、ずっと吉岡君の手をぎゅっと握ったまま。


「疲れたね」

「うん……。なんか、もう頭の中が容量オーバーしてる」


 コインロッカーから荷物とコートを取り出して、建物の外に出た。広場に吹く風は意外に強く、コートを着込んでも、キンと体が冷えてくる。

 ずっとつないでいた手を離したから、なんとなく右手が軽くて、不思議な感じ。


「……」

「……」

「ねえ」

「あの」

 同時に声を出したので、またお互いに言葉が詰まる。なんとなく、ぎこちないのは、なんでだろう。


「お腹、空いたね」

「ああ。何食べようか」


 ようやく普通に会話が流れ始めた、けれど。


 錯覚なのはわかっていても落っこちそうに怖いところや、見上げるような不思議な光景の中を、ずっと力強く手を握ってリードされて歩いてきたから、吉岡君に対して、今までとはちょっと違う感情がある。


 これって、いわゆる吊り橋効果ってやつ?

 それこそ、錯覚、だよね?

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