16 不意打ち
見覚えのあるマンションの前でタクシーは停まった。
「僕はここで降りますが、どうします? 僕はもっとお話ししたいけど、無理強いはしません」
どうしよう。
二杯目のシャンペンを飲みおわると、イケコンはまた同じ個人タクシーを呼び、二人で乗ってここまで来た。
このまま、イケコンと過ごしてしまうのも悪くないかも、という気分も正直ある。シャンペンの軽い酔いと、車の中でずっと握られていた手の温かさで、体の奥にジンと熱がこもっている。
でも一方で、吉岡君の気持ちを考えると、ここで決めてしまうわけにはいかないというためらいもあった。
「あの、やっぱりもう少し、お二人のことをちゃんと考えてから決めたいので、今日は帰ってもいいですか」
「もちろん。僕としてはとても残念ですが、そこは遠藤さんの判断ですから」
手を握ったまま、前に座っている運転手さんに声をかけた。
「僕は降りますが、彼女の言う所まで送ってあげて下さい。料金は、メッセージで金額を送ってくれれば、いつものようにペインペイで支払います」
「承知しました」
運転手さんは席を降りて、車の周りを歩き始めた。さっきのように、降車側のドアを開いてくれるのだろう。
車の中が二人きりになった瞬間、握っていた手が離れ、頭の後ろに添えて優しく引き寄せられた。チュッと音がして、額にキスされる。
「今日は、これだけで我慢しておきます」
ドキドキして声も出せない私から離れて、ちょうど開けられたドアからイケコンはゆっくりと降りていった。
「じゃ、お休みなさい」
「お、おやすみなさい」
息が止まりそうなまま、ようやく返事をした。こんな不意打ち、ずるい。
運転手さんはドアを閉めると、また運転席に戻り、振り向かないまま尋ねた。
「では、行き先はどちらでしょうか?」
「あ、あの、下北沢の駅の近くで」
「承知しました。ルートの指定はございますか?」
「え? あ、いえ、お任せします」
静かに車が動き始める。振り返ると、マンションの前に立っているイケコンは、にこやかに手を振っていた。
あの手と唇が触れた、一瞬の感触が、まだしっかりと残っていた。やっぱり降りれば良かったかな。
胸の奥がきゅんとしたまま、熱がおさまらない。
どうしてくれるの……
***
「そこの角を曲がった所で停めて下さい」
「はい」
アパートに入る路地の一本手前で、タクシーを停めてもらった。イケコンと親しそうな運転手さんに自宅を特定されるのは、何となく嫌な気がする。
「あの、料金は大丈夫ですか?」
「はい。狭間さんに金額を連絡すると、ペインペイで振り込んでいただけるので。お客様は結構です」
そういうものなんだ。確かにスマホで決済するのなら、車に乗っていなくてもいいもんね。運転手さんは、タクシーのメーターを『支払』にすると、自分のスマホで何やら打ち込んでいる。
「はい。入金いただきました。大丈夫です」
スマホをしまうと、運転手さんは急いで運転席を降り、後ろに回ってきてドアを開けてくれた。
「あ、ありがとうございます」
私がタクシーを降りると、深々と礼をして、また車に戻って行く。なんか、タクシーの運転手さんというより、ドラマでよく見るお金持ちのお抱え運転手みたい。
車が走り去るのを見送ってから、自分のアパートに向かって歩き始めた。
コンビニで、何か買って行こうかな。ドキドキしてたら、ちょっとお腹すいちゃった。
自分の部屋に入ってスマホの画面を見ると、イケコンと吉岡君の両方からメッセージが入っていた。
コンビニの店内にいる時から、何度もバイブが鳴っていたから、気がついてはいたけれど、落ち着いて読みたいのであえて中は開かなかった。
まずは吉岡君の方から。
ベッドの上に横になってメッセージを開く。
[ 今日はごめん。せっかく約束したのに行けなくて ]
[ 狭間先輩に変なことされなかった? 嫌だったら、ガツンと俺から言うから ]
[ 来週は絶対に連れて行くから、楽しみにして ]
今日は、夕方からいろいろなことがあり過ぎて、吉岡君と会ったのは遠い昔のような気がする。イケコンには、高校生のような軽いキスをされたけど、これも吉岡君的には「変なこと」に入るのかな。
ふふっ。
イケコンに食ってかかっている、吉岡君の様子を思い浮かべて、思わず笑ってしまう。このことは言わないでおこう。
[ 大丈夫。何もされなかったよ。ごちそうしてもらっただけ ]
[ 来週、楽しみにしてるね ]
さて、次はイケコンのメッセージ。
[ 今日はどうもありがとう。いろいろな話が聞けて楽しかった ]
[ 来週は泰造の番だけど、つまらなかったら、早々に切り上げて僕に連絡して下さい ]
ふふ。イケコンも張り合っちゃって。
でも、まずはちゃんとお礼をしておかないと。
[ 今日はご馳走さまでした。中華もおいしかったし、夜景のきれいなバーも素敵でした ]
[ 帰りも、タクシーで家まで送っていただいて、ありがとうございます ]
[ あのタクシーは、いつも呼んでいるんですか? ]
なんか、タクシーとは思えないくらい丁寧な対応だったし、リモートで支払なんて初めて見た。
[ いつも使っていますよ。いろいろ融通も効かせてもらえるし、自宅を知っているので、寝てても帰れるし ]
[ 遠藤さんが泰造に飲まされて大変だった時に、うちまで乗って来たのも、あのタクシーでしたから ]
うそっ! あの運転手さん、何も言わなかったけど、泥酔した姿を見られてたの?!
恥ずかしくて、顔が熱くなってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます